第12回研究会

第2次日韓協約をめぐる大韓帝国の動向

原田 環

発表要旨

はじめに

2次日韓協約は日露戦争の講和条約(ポーツマス条約、1905.9.5)締結後の1905年11月17日に、林権介全権公使と朴斉純外部大臣との間で締結された。この第2次日韓協約は大韓帝国(以下、韓国と略す、1897-1910)の外交権を日本に移管することと韓国に日本人の統監を置くことを主な内容とするもので、1910年の日韓併合に関わる重要な条約であった。

この条約に対するこれまでの評価は、当時の皇帝高宗が米人H.B.Hulbertを用いて対外的に反対運動を展開した事などから、皇帝高宗はこの条約に一貫して反対したとするものである。

この通説に対して、私は李完用らの「五大臣上疏文」を再評価して、皇帝高宗が率先して日本の条約案を修正して受け入れたことを「第二次日韓協約調印と大韓帝国皇帝」(『青丘学術論集』24、韓国文化振興財団、東京、2004年4月)において明らかにした。

このたびの報告においては、これまで等閑視されてきた皇帝高宗の君主外交に視点を置いて、日本案を修正して締結することに動いた皇帝高宗が、条約締結後は一転して反対運動を煽動する過程と、これに対応する韓国国内の反対運動の展開について取り上げる。

1.第2次日韓協約の締結

まず、大韓帝国政策の決定システムについて触れておく。朝鮮は1895年の日清講和条約(1895)によって清の冊封体制の下から独立すると、1897年に国号を大韓帝国に改め、さらに1899年に「大韓国国制」(全9条)を制定し、大韓帝国の存立の正統性を旧来の清の冊封ではなく万国公法にあることを主張した。

この「大韓国国制」によれば、大韓帝国の皇帝は外交権を含めて「無限」の君権を有していた。皇帝の下には議政大臣以下9名の大臣からなる議政府が置かれ、「軍国重要事項」は議政府で審議した後、中枢院の諮詢協議を経て皇帝に上奏し、皇帝の裁可を得て御押御璽の後、官報で告示することになっていた。要するに官報で告示された事項は皇帝の裁可を得たものであった。

 日露戦争期以降の韓国を取り巻く国際環境を見ると、当時の勢力均衡論に基づく国際安全保障の考えに基づいて、桂・タフト協定(1905.7)、第2次日英同盟協約(1905.8)、日露講和条約(1905.9)によって韓国に対する日本の権益が国際的に承認された。

 こうした状況の下で、1905年11月、第2次日韓協約の締結交渉が行なわれた。皇帝高宗は、韓国を取り巻く国際環境を踏まえて、日本の第2次日韓協約締結要求を全面的に拒否するのではなく、交渉によって韓国にとって有利なように修正した上で受け入れようとした(「交渉妥協」「協商妥?)。ただこの時、皇帝高宗にとって韓国の利益とは、即ち韓国皇室の利益であった。したがって11月17日午後の御前会議、同日夜から夜半にかけての締結交渉においては、韓国側は皇帝高宗を先頭にしてもっぱら皇室の利益保全の観点から日本案の修正を求めた。

 この結果、皇帝高宗を前にした議政府の御前会議で日本案(全4条)に対して4箇所の修正が議論された。この内2箇所は皇帝高宗自身が提起したものであった。この会議の後、韓国の外部大臣朴斉純と日本の林権介公使とを中心にした締結交渉に伊藤博文大使も加わり、韓国側が求めた4箇所の修正要求をすべてを伊藤大使が受け入れて調印に至った。

条約調印文書では締結日は11月17日となっているが、実際は18日未明に調印された。調印された第2次日韓協約は全5条からなり、第5条に日本政府が韓国皇室の安寧と尊厳の維持を保証することがうたわれている。かくして、皇帝高宗の要求は条約に反映された。

2.皇帝高宗による条約反対運動の煽動

 しかしながら、皇帝高宗のこの条約の締結に不満であった。皇帝高宗の不満は、御前会議で提起された4箇所以外の新たな修正を得て、条約を形骸化することができなかったことにある。それは、条約締結交渉の中心的役割を果たすべき首班の参政大臣韓圭?と外部大臣朴斉純が日本案の修正要求ではなく、条約締結交渉そのものを拒否したためであった。

そこで条約反対派の韓圭?等でさえ条約が締結されたという事実を認めるにもかかわらず、11月18日に条約が実際に調印された後、皇帝高宗は各地に密使を送り、第2次日韓協約は脅迫によって結ばされたものであるので反対運動に決起せよと煽動した。

 この煽動の結果、11月19日あたりから条約反対の動きが見え始め、20日に『皇城新聞』に「是日也放声大哭」「五件条約請締顛末」が掲載されて以降、条約反対運動が急速に広まった。『皇城新聞』はこれらの記事によって発禁処分を受けたが、「五件条約請締顛末」は『大韓毎日申報』に転載されてさらに運動を広めた。条約反対運動は11月23日頃から本格化した。条約反対運動は、当初は条約無効論、条約破棄論、外部大臣朴斉純の処分などの主張に止まっていたが、やがて皇帝高宗が国家を私物化することに対する批判の動きも出た。

3.皇帝高宗による条約反対運動の抑圧

 条約反対運動に対する皇帝高宗の対応は、11月28日を境に大きく変わった。この転機となったのは、この日の伊藤博文大使との内謁見である。

この内謁見において、皇帝高宗は伊藤博文大使に、韓国への日本の融資や帝室財政の強化などを求めた。これに対して、伊藤大使は罷免された韓圭?以外の現内閣メンバーを変えないこと、首班には朴斉純が適任などを提起した。皇帝高宗は、これを是とした。

 その結果、この日、反対運動から指弾の的になっていた外部大臣朴斉純を、参政大臣として内閣の首班に、外部協弁尹致昊を署理外部大臣にそれぞれ任じた。これらの人事は明らかに、条約反対運動と真っ向から対立するものであった。この日は、さらに条約反対の上疏を行なう者を捕らえるという「拿陳疏諸臣」の詔を下した。

 こうした条約反対運動抑圧に対して、11月30日に侍従武官長閔泳煥が、12月1日に宮内府特進官 趙秉世がそれぞれ抗議の自決をした。これ以外にも自決が続いた。この結果、皇帝の責任を追及する声がますます高まった。

 こうした状況の下で、皇帝高宗は学部大臣李完用を12月8日に臨時署理議政府議政大臣事務、12月13日に臨時外部大臣事務に任じる一方で、学校関係者、法官養成所の関係者、軍人等が政治に関与することを禁止し、12月16日の官報において、第2次日韓協約を「韓日協商条約」として告示した。

おわりに

 以上の検討から明らかなように、皇帝高宗は第2次日韓協約の締結に徹頭徹尾反対したのではなく、締結交渉を通じて少しでも日本から皇室の利益を引き出そうと駆け引きした。

 皇帝高宗の行動の原理は皇室の利益の追求にあり、国家は皇室の私有物であった。その結果、国民の利益の立場からする条約反対運動と皇帝との間の矛盾が顕在化し、1900年代末になると、国権回復運動において国民国家論の模索が始まる。

 皇室が韓国国民の統合力たりえたのは、3・1運動(1919)までであった。

討論内容

(上記 発表要旨につきましては、後日発行のニューズレターにも掲載されます)

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