第四回研究会

中国の社会慣行と移民の生態学

Philip A. Kuhn

発表要旨

社会構造・文化を含めた「組織化」は、集団が一つの単位として振舞い環境に適応することを可能にする。また「生態系ecosystem」は組織化された集団とその環境との適応の相互関係、すなわち「環境、集団、組織化の相互作用」である。ここで私はこの人類生態学の概念を五世紀以上にわたる華人の移民集団の歴史的経験、とくに彼らの社会制度が変化する環境に適応する時の歴史的経験に広げてみたい。

国内移住であれ国外移住であれ、移住先の社会と移住元の社会において、「ニッチ」と「回廊」という二つの生態的要素が人々の生活に影響を与える。「ニッチ」とは、集団やその一部が生活することのできる資源空間(場所と職業)であり、「回廊」とは移民、資源、情報が移住元と移住先の社会を往復する社会空間のことである。移住元の社会における生態的ニッチとしての移民生産は、移民が移住先の社会で占めるニッチを補完するものである。

中国の社会慣行の要素として、ニッチと回廊は17世紀以降に広まった国内移住・国外移住の不可欠な要素であった。生育可能なニッチを探す挑戦は、全ての移民集団が経験しなければならないものであり、新しい環境における足がかりとして、ニッチは生計を確立する最初の一歩として機能した。これに対して回廊は移住元の環境の延長であった。移民は多様な社会的帰属の様式(経済、文化、親族)を保持していたので、物理的に住んでいる社会よりも一層強固に元の社会の方に結びつけられていた。回廊の維持は一時滞在の本質であり、移民は精神的にも行動的にも彼らの国、文化、人々との関係を恒久的に断ち切ろうとはしなかった。回廊は空間的側面も持っていたが、主として社会的・経済的なものであった。「移民社会」とは移住先の移民自身と移住元の同族や隣人を含むものであり、それは故郷の一部でもなければ移住先の一部でもない特殊地帯に存在していた。ニッチと回廊は時代や環境とともに著しく変化し、その相互作用は移住の歴史の中で継続するパターンを形成した。この二つの要素は相互に他方を補完するものであり、一方が維持できなくなれば他方も立ちゆかなくなる性質のものであった。

中国南方沿岸の社会は多様な方言集団と強大な宗族によって知られているが、これが排他主義の社会的構造、すなわち自らを一つの利益集団と強く同一化し、他の利益集団と不可避的に競争関係となる傾向を生み出している。しかしこの排他主義は移民の「ニッチ」や「回廊」の創造と運用に重要な役割を果たした。海外移民は自然に国家的集団として結びつくことはなく、むしろ相互の排他的区分を強調したが、この強化された排他主義は適応を極めて容易にし、故郷から遠く離れたところで成員に保護と配慮を提供することのできる強い内的結合を持ったグループを形成するという機能を持っていたと考える。また経済的「ニッチ」(特定の方言集団が特定の場所においてある職業を独占すること)への分割は、職業の聯合を通して費用のかかる競争を減らし、生存をより容易にするのに役立った。

労働代理人制度は国内移住において伝統的に存在した中国の賃金労働の特徴であった。故郷以外の場所での仕事は、慣例的に包工、工頭などの労働代理人を通して手配され、募集から労働者の衣食住、賃金の支払いまで彼らに委託されたが、移民の管理もこの慣行の延長としてみることができる。移住における仲介者=協力者の役割は、コネと特殊な知識によって移民がトラブルや危険を避けるよう手助けすることである。しかしより根本的なことは親族、方言、地域、職業などの親近性であり、一般に彼ら協力者は依頼人と親近的関係を持っている。協力者は移民が入手できない特殊な知識の持ち主であり、仕事や住居、安全を提供できるコネを相手先に持っていた。歴史的に協力者は、現在のように(地位や賞賛といった社会的なものも含めた)「儲け」のために従事していた。協力者はしばしば契約を完了し自ら労働者の募集者として商売に従事する帰国移民(老客)であった。自らの村・宗族を中心に活動するこの種の「頭」とその労働者の関係は、強制的というよりも調和的なものであった。

協力者の商業利益は良性(自発的移民を助ける)か悪性(不本意な移民を搾取したり誘拐したりする)のいずれでもありえた。協力者というカテゴリーには、正規の旅行代理人から組織的犯罪者に至る人々が含まれている。東南アジアでは義兄弟(秘密結社)の役割は決定的である。中国沿岸の輸出港の義兄弟の役割はあまりはっきり理解されていないが、条約港の代理人=協力者は一般に義兄弟の関係を持っていたと考えられる。  あらゆる種類の仲介は運賃の負債を引き受ける余裕のある金持ち、すなわち商人エリートが相手先の社会にいることを必要としていた。定着した商人エリートは華人社会の核の役割を果たし、仕事や住居、食品や日常品などの条件を提供すると共に、中国への送金網の必要な結節点ともなった。しかし例えばカリフォルニアの移民の場合、商人エリートが蘭領東インドのプラナカンや海峡植民地のエリート達のように富や政治的コネを持たなかったため、排斥の時代に華人移民が被害者となり取り残されることを回避できなかった。

代理人の概念は、移民サービスとでも呼ぶべき商業的「ニッチ」の重要性を示している。移民の手配にまつわるほとんど全ての行為が利益を生み出す事業になった。例えばアメリカの排華政策のように、外国政府によって移民を追い出すために建てられた障壁でさえ、それをすり抜けて越境するサービスが高度な技術を要し、かなりの報奨をもたらすことから商売の機会となったのである。

以下、16世紀以来の華人移住における五つの生態史的側面の概略である。

(1) 国内移住

帝国後期の中国の生態系は、人口に対する可耕地の少なさから農家の労働力をその農業生産の外部への再分配を余儀なくさせる適応の相互作用を含んでいた。可耕地を増やすために莫大な労働投資が土地開発に当てられたが、それでも可耕地の面積は人口の三分の二の速さでしか増えなかったため、商業、労働輸出、移住が一般的な家庭の生き残り戦略となった。商人・工人・労働者など商業的移民は現地社会の土着の集団だけでなく他の方言群からの移民とも競争せねばならず、出身地・血縁などの排他的な絆によって生き残りを図った。排他主義はもとの社会に富を還元し、さらに多くの労働と資本を遠方の商業的投機に補充する回路を支えていた。利用可能な資源空間に効率的に労働を分配することで生産力を最大化するという生態的原則は、しばしば男たちを外地へ働きに遣ることを意味した。家estate householdを単位に考えると、送り出す家族・外に出た男性の双方が相互に利益を保障していた。また会館や公所のような同胞組織により一時滞在者の経済的ニッチを限定・保護し、故郷との絆を通じて人、情報、資源の継続的交換を維持するという構造は、海外にも容易に拡張し得た。

(2) 初期ヨーロッパ植民地主義

16世紀はじめからヨーロッパ人がアジアの東方に進出するようになると、すでにマラッカ、マニラ、ジャカルタなどで活動していた中国人商人はやがて国際商業システムの東南アジアセクターの形成におけるヨーロッパ人の協力者となってゆく。植民地の貨物集散地で、中国の一時滞在商人は植民地の保護者の下で特権的な経済的ニッチを見出した。これらのニッチは、一番上のレベルでは徴税請負制度を構成しており、それを通して中国人の商人エリートは植民地統治における準官僚機構として機能した。彼らは常に政治的軍事的権力を持つ保護者に依存しているが、彼らの技術と資本に依存する弱い植民地行政にとっては「不可欠なよそ者」、強力であるが危うい存在であった。彼らはヨーロッパ人が脅威を感じればしばしば容易に駆逐され虐殺された。一方で彼らは現地でクレオール社会を形成・維持するという、植民地の環境に対するもう一つの独特の適応によってその危うさを相殺していた。

シャムとベトナム南北の諸王国は17世紀以来膨張し続ける華人集団のホストであり、その意味ではこれら東南アジア独立諸王国の未だ植民地化されざる君主制もヨーロッパ人植民地と類似していた。要するに、中国人が東南アジアへ移動した環境は、彼らを必要とする保護者国家及び彼らと競争する関心もなければ準備もない現地の集団とによって特徴付けられていたのである。

(3) 植民地統治の強化と大量移民

19世紀、競合するヨーロッパ産業諸国家の成長は、植民地の資源のより徹底した搾取と海外領土の直接的統治をもたらした。母国政府に任命された植民地官僚を通じて、より多くの資源と利益を得るために、東南アジア社会により深く入り込むための様々な手段が講じられたが、中国人はこの動きにすばやく順応した。彼らは金貸し、請負人等としての地位を確立し、増大する輸入品の流入と彼らの農村市場への浸透は、中国人の商業的ニッチを広げることとなった。

19世紀末になると、東南アジアにおけるヨーロッパ支配の強化は中国人にとってより挑戦的で危険な環境を生み出した。徴税請負とそれを中心とする保護のネットワークという、古い植民地のニッチは植民地主義自身の変化と共に変容してゆくが、中国人エリートは地位とアイデンティティの新しい文化的指標を探すことで適応した。すなわち一方では中国における改革、国家建設運動に連動した表面的な再中国化を押し進め、その一方ではヨーロッパ文化と国籍を通して植民地権力との同化が強化された。この二つの潮流は中国人社会の中で社会的地位を維持するための重要な適応であり、また中国人エリートの経済的地位に対して政治的保護を獲得する手段でもあった。

東アジアへの植民地の圧力強化に伴って中国沿岸部における西洋の支配が確立され、それは労働の大量補充と輸出を可能にした。輸送のスピード化とコストの低下によるより流動的な回廊が形成され、移住先の社会において中国人社会が構造的に変化し、また植民地地域のそれとは全く異なる環境へ中国人の移住ルートが拡張された。さらに治外法権の条約特権による西洋の商業代理人の参入、また中国による移住と帰還の合法化が移住の回廊をますます強化し維持することになった。

大量移民はまた東南アジアの移民社会の構成をより複雑にした。生態学的に中国の移民における「集団」は、最も一般には方言群のことを意味し、中国語の「幇」に相当するが、これらがそのアイデンティティや機能を保持しつつ「中国」の集団の中に入れ子の形で存在することによって、多層の生態的適応が可能となるのである。

大量移民は新世界と南洋州へという移住ルートの拡大を含んでいた。それらの地域には政治的権力者や原住民の集団から中国人社会の保護を確保できる強力な商人エリートが居なかった。彼らにとって特別の有用性を持つ植民地制度がない中で、北米への移民は他のエスニック集団からの競争に直接さらされ、最終的には極めて保護的な民族集団である「チャイナタウン」という形で生き延びることとなる。

(4) アジアのナショナリズムと植民地主義の終焉

19世紀末に始まるアジア各地でのナショナリズムの高まりを受けて、海外華人社会のいくつかの層が中国革命とそれが生み出した国民国家にアイデンティティを求めたが、それは移民の適応にとって二つの正反対の結果をもたらした。「中国」アイデンティティの主張は中国政府による保護を引き出すと共に、方言群の境界を超えた汎中国のアイデンティティを確立する枠組みを提供し、移民社会に社会構造的影響を与えた。一方でこのような汎中国運動は全体として中国人社会の適応に悪影響を及ぼすものであった。それは外国(とりわけ汎中国ボイコットの対象であった日本)との関係を損なわせたために植民地政府の反感を買った。汎中国運動はまた中国人社会と、いくつかの点で脅威を抱いていた現地人との関係を複雑にした。

(5) 20世紀後期の再構成

冷戦構造の中で閉じられていた中華人民共和国とアメリカ、カナダ、オーストラリアなどとの国交が回復するにつれて、移民の移住パターン、移住ルートのシフトが見られるようになる。台湾・香港など先進的技術と教育を持った移民が台頭するとともに、中華人民共和国の統制が緩まったことで、中国国内の巨大な労働移民と海外への恒常的な移民の流れが許されるようになった。かなりの者が非合法に出入するようになる一方、1970年代以来は留学がますます重要な移住の回路になってきている。同時に途絶えていた古い回廊の関係が再構築され、新しい回廊が再構築されつつある。この新しい段階の重要性はまだ解明の余地が残されている。

討論内容

(上記 発表要旨につきましては、後日発行のニューズレターにも掲載されます)

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