第二回国際シンポジウム(第五回研究会)・第一日目

モンゴル元朝の遺産と明朝の皇室

デイビッド・ロビンソン

報告要旨

 十二世紀から十三世紀にかけて、チンギス=カンと彼の継承者達は空前絶後の大帝国を建立した。モンゴル帝国の支配が各地の経済・政治・文化・技術・芸術・人口・農業等等に対してどういう影響を与えたかについては、いまでも激しい論争が続けられている。いずれにしても、当時モンゴル帝国各地の宮廷−大都・上都・スルタニエ・バグダード・サライなどの諸都市は、学問・宗教・芸術・政治の中心として世界中に有名であった。モンゴル帝国崩壊後もなお、ユーラシア各地に新しく出来た王朝は、モンゴル時代を一つの基準としてその政権を建設した。とりわけモンゴル帝国崩壊直後の十四・十五世紀を生きた野心的指導者にとって、モンゴル帝国の遺産は極めて重要であった。自分の政権の正統性を確認するため、誰もが積極的にモンゴル帝国の遺産を利用しようと考えたのである。

 モンゴル元朝の遺産に対する明朝の態度を理解するためには、ユーラシア全体規模で考えてみる必要があろう。明朝はモンゴル支配が中国の礼楽を混乱させたという点を批判しながら、その一方で元朝の正統性も認めて、モンゴル帝国の遺産を利用しようとしたと言える。明太祖はモンゴルの言葉・衣服・名前・音楽・葬礼などを用いることを繰り返し禁止し、純粋な漢族である漢朝と唐朝の制度・風俗を恢復するという「決意」を度々強調した。しかしそれと同時に、明太祖は元朝の様々な行政体制と軍事制度をほとんどそのまま踏襲した。また雲南・遼東など歴代の中国中央政府が支配出来なかった地域も、元朝の支配領域であったがために、明朝の版図に入るべきという意識を強く持っていた。明太祖は積極的にモンゴル人を明朝の軍隊に取り込んだ。さらに彼は元朝の高麗貢女制度も踏襲する意図も持っていたようである。以上の諸点から考えて、明太祖には元朝の継承者という一面があったと言って間違いない。儒教・仏教・道教、さらに中国風の民間宗教の伝統を利用しつつも、明太祖は元朝の遺産の持つ力も有効に発揮しようと考えたのである。

 明成祖はより一層、モンゴル帝国と自己の帝国とを同一視した。宮崎市定は「彼の意図するものは、中国人の中国ではなく、中国を中心とした東亜共同体の形成であったに違いない。言い換えればこれは元帝国の復活である。かれは自ら元の世祖の再来を以て任じたと見られなくもない」と指摘した。その他多くの研究も明成祖の外交と軍事活動に対する熱意を強調する。

 本報告では、明朝の朱氏皇室とkhaghanカアンとしての元朝遺産、とくにクビライ(元世祖)との関係を考えてみたい。従来は、カアンとしての明朝皇帝のアイデンティティは十分意識されてこなかったようである。その理由の一つは、現存する文献の性質に求められる。明朝宮廷の研究で主に用いられてきた文献は『明実録』『皇明制書』『大明集礼』のような官側の編纂資料、あるいは個人の文集である。性質は異なるが、両方とも士大夫の手で書かれた記録である。言うまでもなく、明朝官僚たる士大夫の価値観・自意識及び政治的・文化的理想と明朝のそれらとは、必ずしも一致していなかった。文献資料は書き手の主観から完全に自由ではあり得ないものであり、明朝皇室とモンゴル帝国との関係を理解するためには、その扱いに十分注意しなければならない。こうした文献上の諸問題を克服するため、できるだけ質と立場の違う様々な資料を利用する必要がある。

 宮廷肖像画は皇帝あるいは政権全体の自意識、及び政治的・思想的・文化的イメージを理解する上で重要な資料の一つである。最もよく知られている明朝の宮廷肖像画は、故宮博物院に所蔵されるものである。それらの宮廷肖像画の中の皇帝の姿は時代により変化が見られるが、大体において皇帝は宮殿内の玉座に座り、中国風の服装を身に付ける。この種の絵画には多かれ少なかれ皇帝を伝統中国の理想的な帝王として描く傾向が見える。

 宮廷肖像画のもう一つの種類として、いわゆる行楽図がある。明朝皇帝の自己イメージとしては商喜の「宣宗行楽図」が意味深い資料である。まず注目すべきは場所である。一般の皇帝肖像画と違って、皇帝も周りの宦官も宮廷の内部にいるのではなく、また皇帝は玉座に静座するという姿でもない。皇帝は野外で馬に乗って、非常にダイナミックな場面として描かれている。特に強調すべきは皇帝の衣類である。宣宗は氈笠(笠子帽)というモンゴルの帽子をかぶり、元代の比甲に極めて類似した乗馬用の衣服も着ている。

 明朝皇帝がモンゴルの衣服を着るのは単に習慣的なものである、あるいは宣宗の衣服は軍事に対する関心を反映するという説があるが、「宣宗射猟図」(北京故宮博物院)に描かれた明朝皇帝の姿はあたかも元朝のカアンを見るようである。モンゴル帽子をかぶり、モンゴル服を着て、中国の天子が鹿を追っている。「宣宗猟騎図」にも同様に宣宗がモンゴル服を着て、馬に乗って、野外で活動する姿が描かれる。絵画の細部を見てみると、鞍の下の精緻な毛皮は「元世祖出猟図」に描かれたクビライの毛皮を想起させる。いわゆる繋腰合鉢は内陸アジア民族に特徴的なものであり、元代の多くの絵画に見受けられるが、繋腰合鉢は商喜の「宣宗行楽図」にも周泉の「狩雉図」にも見える。『大明集礼』『礼部志稿』等所載の記事によれば、明朝宮廷で行われる「撫安四夷之舞」を演じる者も、繋腰合鉢を帯びていたという。「明憲宗行楽図」(北京故宮博物院)はより明朝らしい絵画であるが、憲宗はやはりモンゴル帽子をかぶっている。さらに、宦官は繋腰合鉢を帯びている。

 元朝と明朝の間には顕著な連続性が見られ、明朝の政治史や外交史・文化史等あらゆる領域に深い影響を及ぼした。その連続性の一面として、明朝皇室と元朝遺産との関係を以上簡単に述べてきた。明代宮廷絵画を通じて、十五世紀の明朝皇帝のうち幾人かはモンゴル人の服装・元朝のカアンというイメージに驚くほど一致する。この描き方は偶然ではなく、むしろ意識的な政治・文化手段ではないだろうか。また正徳年間までは、明朝皇室によって、元朝と同様チベット仏教が手厚い保護を受けた。錦衣衛などに所属する達官の比重もひときわ目立つ。明朝親衛と元朝kesiqとには皇帝権力の象徴であるという共通点もあった。さらには諸王の王陵の俑に見られるモンゴル衣服の影響も指摘できる。

 以上様々な資料と視角から明朝における元の遺産を初歩的に考察したが、ここから一体どのような結論が導き出されるであろうか。まず、明朝の多様性には十分注目しなければならない。明朝の政策は内向き・後ろ向き・排外的であったとみなされることが少なくない。確かにそういった面もあったに違いないが、それらをあまり強調しすぎると、皇室内部のあり方に対する視角を見失うことになる。以上の諸資料が示したように皇室と異国との繋がりは緊密かつ多様であった。こういう関係が深ければ深いほど、国際的にも国内的にも、明朝皇室の特殊な位置が確立された。ユーラシアの国々に接触する際、あらゆる政権の承認をうけるような王権が必要とされたのであり、その意味で、モンゴル帝国の継承者の一つというアイデンティティは大きなプラスになった。国内的には十五世紀より、文官官僚が直接的にも間接的にも皇帝の権力にますます挑戦するようになっていった。この挑戦に対する方策として、文官官僚が支配できないカアンという王権の拠り所は魅力的であった。換言すれば明朝とは単一なものではなく、極めて複雑な統合体であった。士大夫の手で書かれた記録に依存しすぎてはこの有り様を見失うことになる。できるだけ様々な文献と現物資料、さらには建築物なども利用しながら総合的に考察する必要があるのではないか。明朝の皇室の実像を探求する仕事はこれからの課題として残されている。


討論内容

(上記 発表要旨につきましては、後日発行のニューズレターにも掲載されます)

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