第八回研究会

明代後半期における法帖刊行の実態―蘇州文氏から松江董氏へ―

増田 知之

発表要旨

法帖とは、書作品の真蹟や?本を木もしくは石に刻し、その拓本に装幀を施して鑑賞に供するようにしたものである。文人たちの間では、書蹟の収蔵、購求、閲玩、鑑識が盛んに行われたが、それだけにとどまらず臨?・鐫刻の精妙なるを競って次々と書蹟を勒石していったのである。このように文人の趣味生活の中心をなす「文房清玩」のひとつとして存在した法帖は、明代の嘉靖年間以降、経済・文化の中心地たる蘇州や松江といった江南諸都市において広く刊行されるに至った。

嘉靖年間を転換期とする法帖刊行の爆発的増加は、官(王府)主体から民間主体へ、といった刊行形態の変化を背景としている。中でも蘇州文壇画壇の中心的人物であった文徴明ら文氏一族を中心とした蘇州の文人たちが、その刊行事業に大いに関わっていたのであるが、彼らの活動は蘇州だけにとどまらず無錫、上海、嘉興の諸処に広がっていくことで、江南地方一帯に「法帖刊行ネットワーク」を形成していったのである。文氏自ら刻した『停雲館帖』をはじめ、名帖として知られる『真賞斎帖』、二王の書蹟を刻した『二王帖』、『二王帖選』、『淳化閣帖』の翻刻である顧氏本、潘氏本、更には『墨池堂選帖』、『鬱岡斎墨妙』といった万暦30年代までの法帖は、そのほとんどが彼ら蘇州文人、就中、文氏一族の影響の下でなったものといえよう。しかし、万暦39年の『鬱岡斎墨妙』以降、蘇州文人主導の法帖、とりわけ歴代名家の書蹟を集めた「集帖」の類はほとんど見られなくなってしまう。

万暦30年代以降、それまでの蘇州文人主導の法帖にとってかわるかのように続々と刊行され出したのが、松江の董其昌を中心とする董氏一族による一連の法帖である。彼らの法帖刊行は、万暦31年の『戯鴻堂法書』から崇禎年間までの30年の長きにわたり、董氏の本拠である松江府華亭県において、董其昌やその子孫、門人らによって断続的に行われた。蘇州文人の手をはなれ松江董氏の手にゆだねられた刊行事業により、収蔵品の佳なるを競って晋・唐・宋・元の歴代名家の書蹟を刻してきた、それまでの「伝統的」な法帖は徐々に様変わりをはじめる。

では、彼らの法帖刊行事業とは、一体どのようなものであったのか。董其昌自身が撰集・審定を行った『戯鴻堂法書』は晋から元の名蹟を集めて刻したものであり、まだ伝統的なスタイルを保っているが、それ以後の『宝鼎斎法書』、『書種堂帖』、『書種堂続帖』、『来仲楼法書』、『汲古堂帖』などの諸法帖は全て董其昌自身の書跡を集刻したものである。これらは、一方では『宝鼎斎法書』の跋に「有徴余書者以此塞請、足以簡応酬之煩」と彼自身が述べるように、応酬の煩わしさを絶つべくその代替物として刻され、また一方では、巷に贋作が簇出する状況の中で、贋作鑑定のための尺度、いわば董書のスタンダードとして刻された法帖である。更には、これらの法帖に付されている董其昌の跋文が、後に刊行される彼の『画禅室随筆』や『容台集』別集に多く収録されていることからもわかるように、法帖(墨跡)と著書(理論)を両輪としてより強烈に鑑賞者にアピールしようという意図もかいま見える。

ここに至って、当時の伝統的な法帖の概念から完全に逸脱した法帖が誕生することになったのである。つまり、歴代の名家の書蹟を刻し、その収蔵の豊富さ、臨?・鐫刻の精妙さを誇るとともに、それを「学書者」に裨益しようという態度から生まれた法帖ではなく、全くの個人(董其昌)喧伝用の法帖が生まれたのである。また前述したように、贋作が横行する状況下で一族の手によって「董スタンダード」といいうる法帖が続々と刊行されたのであるが、これは贋作の鑑定に用いられる反面、スタンダードを広めることによって、更に贋作が作られてしまうという結果を招きもする。こうして、善かれ悪しかれ贋作・翻刻と董氏一族の新たな法帖刊行との「いたちごっこ」が延々と続くわけであるが、この過程の中で董其昌の名が定着し、そして権威づけられていったのであろう。

最後に今後の課題として、いくつか挙げておきたい。まず、董氏一族による一連の法帖刊行において、彼らと関係の深かった徽州人がどのような役割を果たしたのか、という問題である。董其昌・陳継儒らと、明代屈指の法帖として名高い『余清斎帖』を刻した呉廷、『清鑑堂帖』を刻した呉驍轤ニの交流は非常に深い。彼ら徽州人による他の芸術刊行物である画譜・墨譜の刊行も含めて、法帖刊行における董其昌と徽州人との関係を精査しなければならない。

また、法帖は同じ刊行物でありながらこれまで明代出版史の文脈で語られることはなかった。しかし、本報告で言及したように、この法帖は江南地方を中心に民間で次々と刻され、あるものは価格を設定して販売し、またあるものは坊間において翻刻し、結果人々の間にかなりの程度流通していたのである。こういった事実から見ても、法帖は出版文化の一要素として確かに捉えることができるのではないだろうか。坊刻出版や版権問題も含めて、今後明らかにせねばならない点は依然として多い。

討論内容