第三回国際シンポジウム

開放と調節:開港初期の上海における混雑型社会の形成(1843-1869)

熊 月之

発表要旨

上海は開港以降、取り分け租界が設立された以降、普通の沿岸都市から外界に対して開放的な都会へと徐々に変貌していった。また、小刀会の武装蜂起以降、租界は華洋分居から華洋雑居に変わり、上海の都市構造に巨大な変化が起こり、独立した一つの都市から三つの異なる単位に分治される都市になった。その後、租界と華界の文化は互いに影響し合うようになり、その利益も互いに入り混じるようになった。一八六〇年代になると、上海は一種の混雑型社会になった。所謂混雑型と言うのは、三つの要素を含んでいる。第一は中国人と西洋人の管理権の権限が互いに入り混じっていることである。第二は利益の入り混じりであり、第三は法律の混合である。

こうした混雑型社会の形成について、この論文は三つの方面から検討した。

一、二種類の開放。第一種の開放とは上海が通商口岸として開拓され、外界に対して開放されたことである。上海は1843年に開港され、1845年に租界が設立されたが、1853年に至るまで、絶えず華洋分居の原則が実施されており、華人は租界内において土地を借用したり、家屋を建てたり、家屋を借りたり、居住(使用人以外)してはならない、と規定されていた。このような構造のため、租界社会の発展はそれ程迅速ではなく、人口の増幅も大きくはなかった。1853年以前のイギリス租界は人口が少なく仕事も単純であったので、市政に関する機構は所謂道路碼頭委員会のみであった。この委員会は土地の借用者三名から形成され、土地借用者の地価を見積もったり、建築税や、道路や橋梁の維持に必要な税金を徴収したり、碼頭の建設費を募集したりする事柄を担っていたに過ぎなかった。1854年、こうした情況に変化が生じた。1853年小刀会が県城を占拠し、清朝政府はそれを鎮圧し、上海は絶え間ない戦火の中に置かれるようになり、大量の華人が租界に雪崩れ込んだ。1854年、租界は章程を修正し、華洋雑居の事実を認めた。その後、租界は工部局を設立し、巡捕を設置し、義勇隊(後に万国商団となる)を結成し、性質的にそれ以前と大いに異なるようになった。華洋雑居は特殊な歴史的条件の下で形成された状況であり、租界当局の本意に基いてできたものでもなければ、上海地方政府が嬉しく思うことでもなかった。上述した二種類の開放の内、第一種の開放とは上海が通商口岸として開拓されたことで、上海が閉鎖から開放へと歩み出る切っ掛けとなった。第二種の開放とは、即ち租界が華人に対して開放されたことで、華洋分居から華洋雑居に変化し、上海が普通の沿岸都市から特大都市に変貌した基礎であると言えよう。第一種の開放は第二種の開放の基礎であり、第二種の開放は晩清における上海の政治、社会の発展に、より深刻な影響を及ぼした。周知の如く、近代上海の繁栄は、租界の繁栄及び租界の特殊な地位と大きく関わっている。租界の主体的な人口は華人である。従って、仮に華洋雑居がなければ、後に我々がみる上海も存在しなかったと言えよう。第一種の開放と第二種の開放の間には一定の因果関係も存在する。華洋雑居になった直接の導火線は小刀会の武装蜂起であり、また小刀会蜂起の発生は、上海開港以降、人口と官僚構成に生じた変化と大きな関係がある。

二、華洋関係:抗争と合作。上海開港以降、華洋関係は矛盾し、互いに争う面もあったが、互いに協議し、協力し合う面もあった。総体的に見れば、上海の華洋関係は比較的調和が取れていた状態にあった。通商口岸の開拓から言えば、初めて通商することになった五つの都市の内、上海の開港が最も順調であり、寧波がそれに続き、最も複雑であったのが広州だった。上海では1848年に青浦教案が発生したが、それは上海近郊で起きた宣教師と山東水夫との争いであったため、上海の外国人はそれを上海当地の住民との衝突とは見なしていない。上海の外国人はまた競馬場を構築する際に、土地の所有者との間に矛盾を引き起こしたが、外僑はそれを福建や広東の商幇が水を差して衝突をけしかけた結果であると見なし、その責任を上海人に擦り付けてはいけないと考えた。また1854年4月、小刀会蜂起の期間中に上海では「泥城之戦」と言われる清軍と西洋人との間に起きた武装衝突が発生したが、それは僅か二時間にわたる軍事摩擦であっただけで、すぐに鎮められた。総体的に、上海は開港以降の二十年余りの間、官僚でも民間でも、西洋人との付き合いは比較的平和であった。上海地方政府は治安や市政建設の方面でも、租界当局と一定の合作関係を結んでいた。それは上海道台が租界の巡捕費用を援助すること、租界の華人の税金徴収において手を結んだことや、共同で賭博場を禁止すること、及び共同で洋浜の浚渫と橋梁の建設を行ったことなどである。その内華界と租界の最も大きな共同事業とは、中外会防局を設立し、共に太平天国軍と対抗したことである。

三、混合法廷:会審公廨。会審公廨の設立には、徐々に変貌して行く過程が存在した。華洋分居、独立審判、理事衙門から会審公廨に至るまでは、各段階毎に特殊で複雑な歴史的原因が存在した。会審公廨は上海地方政府が租界に設けた法廷である。会審公廨では同時に中国と西洋、二種類の法律が適用されていた。中国政府は会審公廨を通じて租界内における司法権をある程度保持し、西洋の植民地主義者は会審公廨を通じて領事裁判権を拡張し、領事裁判権を持たない無条約国の人々までを外国領事の保護範囲内に納めるようになり、租界内を外国人に奉仕する華人とそうでない華人に区別し、事実上外国人に奉仕する華人をも治外法権の保護対象とした。

この論文では、上海開港以降の混雑型社会の形成を、多くの原因が交互に作用し合い、且つ様々な因縁が重なり合ったために巡り合った結果に帰すべきである、と結論づけた。華洋分居から華洋雑居への変貌は条約で規定されたものでもなければ、西洋の植民地主義者が予め制定した結果でもなかった。この変化が生じた原因には、難民が雪崩れ込んだこと、上海地方政権が麻痺状態に陥っていたこと、及び西洋商人が利益を設けようと図っていたこと等が挙げられる。イギリス政府は元、工部局が租界内において行政権を使うことに反対していた。租界内華人の管轄、租界と上海地方政府の権力の入り混じり、ある特定した歴史的時刻における租界内西洋人と華界官紳の利益の一致性、及び会審公廨の設立と中西法律の混合使用など、何れの事柄にも徐々に変遷して行く過程が存在した。上海開港初期における混雑型社会の形成は、主に相談と協商の結果であった。華洋雑居は協商の結果であり、境界線を越えて道路を修築することも、巡捕費用も、華人から税金を徴収することも、会審公廨も、皆協商の結果であったと言えよう。

討論内容