12th Meeting / 第12回研究会

 

コミュニケーションにおける相互人格的承認

宮原 勇(愛知県立大学外国語学部教授)


1.伝達可能性の条件としての「意味の理念的同一性」

フッサールの言語論では、言語表現の「意味」は理念的対象と同様の同一性をもつとされている。それはそのつどの言語表現の理解が生じている際に、同一表現であれば同一の意味が確保されているはずだ、という想定の上に成り立っていると言える。つまり、コミュニケーションが十全に遂行されるということは、まずは同一表現が同一の意味で理解されて初めて可能となる。フッサールが「意味の理念的同一性」ということで言おうとしたことは、現実のコミュニケーションにおいて常に意味の同一性が確保されていると言うことではなく、もしコミュニケーションが十全に遂行されるならば、その可能性の条件として各表現の意味の同一性が確保されていなければならないというものだ。ということは、逆に言えば、各言語表現の同一性は、コミュニケーションによって確かめられるというものではない。先行的な条件である限り、事後的にその同一性が確証されるものではない。このように言語コミュニケーションの可能性の制約として要請される意味の同一性とは、厳密なる同一性を意味し、その同一性を体現する「意味」とは理念的な存在として措定されることになる。このような論理は、フッサールにおいてのみならず、フレーゲにおいても見いだされるものである。そのような理念的存在は、現実の個別的な物理的存在者や意識の内在的領域を構成する個々の具体的な意識の働きや具体的意識内実とも違った存在形態を持つものである。フレーゲにおいても、フッサールにおいてもそれは<コミュニケーション可能性の条件>として要請されたものが、ある意味で実体化されたものといえよう。そもそも、厳密なる同一性を要請するという論理は、その同一性を体現する存在者の実体化につながる。

2.「コード」神話の崩壊

しかし、コミュニケーションの具体的遂行以前にその遂行を可能にする条件として意味の同一性がなければならない、という論理自体を反省してみると、果たしてコミュニケーション以前に厳密なる同一性を担う<意味>という存在を認めることはできるのか、という問題が出てくる。

Sperber&Wilsonの『関連性理論』が出てきて以来、記号論で言う「コード」なる存在に対して疑問が提示されてきた。「コード」というのは、まさにフッサールで言う<厳密なる同一性を有する理念的存在>にあたる。つまり、伝達可能性を保証する働きがあるのであり、その点ではコードなのである。「コード」(code)の特徴は、記号論で言えば、記号発信者と記号受信者間においてあらかじめ同一なものとして設定されているものだ。つまり、ポイントは、「同一性」があり、「時前性」があるということだ。<理念的同一性>を担う「意味」も同じだ。ということは、そのようなコードの存在を否定する「関連性理論」が展開する論理に対してどのように対処するかを考えておかねばならない。どうするのか。「関連性理論」によれば、対話者同士、相手が何について話しているかを想定しながら対話しているのであり、もともと二人の人間が同じ表現に対して同一の意味を込めて話をしている、ということはそう簡単には考えられないのだ。ただ、相手がその表現に対してどのような意味を込めているかという想定をおこなっているにすぎない。それは、しかし同時にあいてもそのような想定をおこなっているのではないかという想定をおこなうのだ。つまり、そのような想定は自分自身の方に戻ってくる想定である。それを「相互反照的想定」と呼ぶことができるだろう。意味の同一性は、そのような相互反照的想定により、互いに意味の齟齬を修正していくというプロセスの中で確保されていくのである。それはちょうど、二人でオールを片方ずつ持ち、ボートを漕ぐようなものだ。意味の同一性は、そのような共同行為の帰結なのだ。

3.志向性の等根源的主体としての承認

さて、次に志向性とは単に<対象についての認識一般>を表すのではなく、その本質には<他の志向的システムを自らと等根源的システムとして認識しうる>という働きが属している、というテーゼを主張したい。つまり、これは「志向性」、ないしは「志向的システム」の「再帰的」(recursive)な定義である。他のものが自分と同じように意識を持ち、場合によっては心を持っているという想定をなし、そのように関わることができるというものだ。このように関わりを「志向的態度」と呼ぶと、志向性とは他のものに対して志向的態度をとりうる存在を言う。これはもう一つの循環的定義になっている。しかし、単なる循環論法ではなく、定義の内部に自らを組み入れる定義として考えたい。そうなると、志向性自体に「相互性」、さらには「相互反照的承認」が本質的に属していることになる。そうなると、志向性の意味内容がかなり限定されることになるが、われわれ人間にとって外界の様々な対象に関する認識をおこなうということと他の人間を自らと同じ認識主観として認識することとは次元が違うことなのではないだろうか。他のものを自らと同じ認識主観として認識するということは、そこから視点を共有し、共通の認識視線を生みだし、その都度の認識から生じた知識を共有するということも可能となる。つまり、コミュニケーションによる知識の伝達の以前に、「協同的視点」の生成があるのであり、それは「共同志向性」の成立といってもよい。そのような他者への関わりがあって、具体的知識の伝達が可能となるといってよい。

4.志向性独自の合理性とは

われわれが他の存在者に対して志向的態度(スタンス)をとる場合には、なにを手がかりにするのだろうか。ごく自然主義的に自分と姿形が似ているから、という場合もあろう。しかし、姿を現さなくとも声だけで判断することもある。また、ロボットのようなものに対しても、あるいは犬や猫に対しても全く人間と同様の接し方をする人もいる。こう見ると手がかりなどは一切不要のように思える。

それでは、逆に志向的スタンスでは通用しなくなる場合とは何かを考えたらどうか。その存在者なり、システムなりが志向的スタンスでは理解できなくなる場合はどうかということだ。すくなくとも、「理解」することができなければならない。つまり、自己と等根源的主体の場合は、一定の理解可能性ということが求められる。因果的な仕組みとして「理解」することもあるので、理解可能性ということを広義にとると、「志向性」とは無関係になっていく。そこで、志向的システムはそれ独自の合理性を有すると判断された場合のみ、志向的主体として意識や心が帰属させられるのである。その合理性とは志向的主体の振る舞いに関わる限り、まさに「主体性」を表現するものでなければならない。それは、もう既に「意志」的に色彩を帯びているはずだ。それは、そのシステムが意図性をもち、かつ判断をしているという特徴、つまりそのシステム内部で「判断」をおこなっているかのような振る舞いが必要だ。つまり、サーモスタットのように一定の条件下におかれると同一の反応をすると言うことであれば、われわれはそれが心や意識を持っているとは考えない。つまり、機能的な合理性と志向的合理性とは根本的に違う。意図性、選択性がなければ、主体性は出てこない。単に機能的合理性や合目的合理性だけでは、予測可能となってしまう。実は、自らと同じ主体であるということは、自らの予測により全てが理解されてしまっていては「等根源的」とは言えない。予測不可能な独自の振る舞いがなければならない。予測不可能なのだが、いったんある振る舞いが成された場合には、それはそれで一定の理屈付けが可能な場合、より人間らしい振る舞いとみなされる。事後的な解釈が全く不可能な場合には、ノーマルな志向性を有してはいないということになる。

5.相互承認の形式的構造と実質的原理

以上が志向性に本質的に内在する、主体間の相互反照的承認の「形式的構造」とその論理であったが、もちろん実際のコミュニケーションにおいては「相互人格的承認」の実質的な原理としての<尊敬>が働いている。コミュニケーションが、当然のことながらそれも一つの相互行為である限り、一定の人格として承認することがなければならない。

「承認関係についていえることは、---中略---相互に出会う主体どうしが暴力に頼らず社会的な相手を一定の仕方で承認することを余儀なくされるということだけである。わたしが相互行為のパートナーとして承認しなければ、わたしは相手の反応のなかで自分が同じように一定の人格として承認されているのを見いだすことができない。なぜなら、わたしは、まさにわたしが相手に依って確証されたと感じるはずの性質と能力を、相手に対しては否認してしまうからである。」(アクセル・ホネット『承認をめぐる闘争』)

このようにホネットは、一時期のヘーゲルの理論を解説しながら承認関係の相互性を協調しているが、さらには社会的コンフリクトの原因は人間としての尊敬の「欠如」にあることを指摘している。ということは、相互行為の成立にはそれに関わる人間同士が互いにパートナーとして尊敬し合いということが不可欠であることを主張していることと同じなのである。

[5に関しては拙著『ディアロゴスの現象学』(1998)晃洋書房の第4章を参照のこと]


京都大学文学研究科21世紀COEプログラム 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「新たな対話的探求の論理の構築」研究会 / 連絡先: dialog-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp