14th Meeting / 第14回研究会

 

ジャン・ナベールにおける反省と悪の問題

山内 誠


様々な領域、水準において、対話の重要性を訴える声が、近年ますます切迫した響きを帯びてきている。我々を取り巻いている現実がこの対話への要求を手ひどく裏切り続けているだけに、なおさらこの声は切迫した響きを帯びざるを得なくなる。しかし、なぜ対話は困難であるのか。対話は、人と人の間に生起する。しかし、そこは同時に、「文化の悪徳」と呼ばれるような多くの「悪」が機会を得る場所でもある。たとえば、直接的な暴力や他者への敵意という形で対話の現れる場所を閉ざし、対話そのものを不可能にしてしまう。あるいは、欺瞞のように対話のうちに入り込んでそれを内側から腐食させてしまう場合もある。したがって、対話を不可能にし、あるいは堕落させる人と人の間に生じる悪について考察し、またそのような悪からの解放の可能性を探ることは、対話について考える上でも重要な意味を持つように思われる。本発表はこうした観点から、フランスの反省哲学者ジャン・ナベールJean Nabert(1881-1960)の『悪論 Essai sur le mal』(1957)の考察を取り上げたい。ナベールはこの著作で、悪の経験に伴う罪責性の感情を反省的に深化させるのと同時に、この深化と相関的にのみ触れることのできる悪からの救いの道を照らし出そうとする、特異な思索を展開している。注目すべきは、この深化によって、「諸意識の断絶」、つまり意識間のコミュニケーションの切断を本質的な悪として発見するに至るという点であり、それによって、悪の経験が人と人の間に持っている関係を、単に経験的な観察においてだけでなく、表面的には現われることのないより深い次元から見て取っているという点である。このことは当然、悪からの解放の可能なあり方をも規定するはずである。

『悪論』の出発点は、悪を経験する人間の極めて個人的な感情的反応に置かれている。それは、自らの行為やそれを為しえた意志の邪悪さ、それが他者に蒙らせる不幸に面したときに我々が抑えることのできない、「正当化できない」という感情である。このような「感情」を反省の起点に置くことによってナベールは、悪を否定性や有限性へと還元してしまう形而上学的思弁を退けるのと同時に、悪を自由の倫理的規範に対する関係によって規定する道徳性の哲学をも退けようとしている。従来の主要な悪論は、すべての矛盾を包み込む全体性という形にせよ、あるいは常に自己と等しい自律的な自由という形にせよ、決して覆されることのない自己同一性の安全地帯から悪を論じることによって、悪の経験が本来持っている「正当化できない」という感情のリアリティーを見逃してしまっているのである。それに対して、本来悪の経験とは、もしその重みを真摯に受け取りその深さを突き詰めてみるならば、世界全体、自己の存在全体に対する信頼を覆すはずのものではないだろうか。つまり、自己の存在に克服不可能な亀裂を穿つはずのものではないだろうか。友人を裏切ったということが引き起こす感情は、決して単なる規範の侵犯の意識に留まりはしない。それに対する自己告発は、もしそれが伴う「正当化できない」という感情の衝撃に忠実であるならば、決してその行為に留まることなく、それを可能にした動機へ遡り、さらに究極的には、可能事としての裏切りの観念を発生させた自我そのものにまで及ぶのではないか。つまり、個別的な行為における罪責性の感情に撃たれた意識は、あらゆる悪しき選択の手前で常にすでに悪い存在であってしまっているという「根源的事実」としての自我の罪責性に気付かざるを得なくなる。ナベールはそうして、さしあたってはある悪い行為に向けられていると考えられる「正当化できない」という感情のリアリティーの出所を、どれほど根源的な選択であってもすでにその手前で自己があるべき自己ではないという、ナベールが「罪」と呼ぶ根源的罪責性に見出すのである。

しかしながらナベールによれば、罪の経験は、それが単に自己自身との関係においてのみ語られている間は、なお抽象的であり、なお罪責性のさらなる徹底化の余地を残している。というのも、悪の経験とは常に、犯される悪の経験であるばかりでなく、その悪が向けられる他者にとっての蒙られる悪でもあるからである。この点が考慮されなければ、正当化できないという感情の全幅を捉えることはできない。とりわけ、他者の破滅を意欲するような、カントが「悪魔的悪徳」と呼んだ絶対的悪から接近することによって、我々は他のすべての悪がその帰結に他ならない本質的悪に触れることができるとする。とはいえそれによって、我々がしばしば目にするような形での人間たちの間の争いや敵意のことが言われているのではない。そうした悪の経験について反省するならば、争いや敵意が可能であるのは実は、自我と他我が切り離されて存在しているという諸意識の島嶼性があるからに他ならず、ひいてはある根源的な切断のはたらきがこの島嶼性を生み出したからに他ならないことが気付かれる。通常、我々はこの意識の島嶼性を最初の所与として受け取っている。だが、もしそうであったとすれば、悪によって生じる意識間のコミュニケーションの断絶は、単にもとあった状態へと意識を差し戻すことにすぎなくなり、それゆえ、その経験は「私」が「私」であることになんら影響を与えることがないということになろう。しかし、経験が教えるように、実際には全くそうではない。罪の経験と同じく、他者との間のコミュニケーションを破壊する敵意や憎悪は、我々の存在そのものを脅かすからである。つまり、我々が普段信じているのとは逆に、対話の条件でもあり闘争の条件でもあるような原初的な意識間の相互性がまずあって、そこに断絶がもたらされることで初めて個別的で独立した意識の島嶼性が構成されると考えられるべきなのである。この相互的関係は、弁証法的な仕方によってであれ、あるいは間主観的な仕方によってであれ、相互性に先行する個別的な自我の間で構築されるものではない。相互性とは、複数の自我の間に張り渡される関係であるよりは、むしろそこから関係が始めて生じてくるような始原的な一性の表現とでも言うべきものである。注目すべきは、この断絶の悪と、自己自身との関係における罪とは別ものではないとナベールが述べている点である。実際、自己が自己であることの罪責性とは、相互性を切断することによって自己を自己として構成し、同時に他者を他者として構成するこの断絶の悪から生じるものとして、初めて理解することが可能となるのである。したがって、あらゆる悪の正当化できないという感情のリアリティーはこの諸意識の断絶にこそ由来しており、あらゆる悪の経験は本質的に他者との関係を含んでいると言えるのである。

さて、この地点において明白になるのが、正当化できないものに自己自身によって正当化を与えること、つまり自己義認の不可能性である。このことはすでに、罪の分析において予告されていた。自己が自己であることに正当化できないものの根があるとすれば、それを自己自身のどんな行為によって正すことができるだろうか。そしてさらに、この罪が諸意識の断絶という本質的な悪を通して他者が蒙る悪と不可分の関係を持っていることによって、自己義認の不可能性はいっそう確かなものとなる。なぜなら、たとえ我々が犯した悪を、革命的な改心によってであれ、漸次的な道徳性の向上によってであれ、自己自身によって正すことができたとしても、それが他者たちに及ぼした悪が放置されている限り決して正当化の要求に答えることはできないからである。それどころか、どれほど立派な行為によってであれ、自己自身の救いにいそしむ行為は却って諸意識の断絶を深くし正当化への道を遠ざけることになりかねない。つまり、自己義認の試みそのものが、その背後にある本質的な悪の証左だとすら言えるのである。

だが、このことは同時に、正当化の欲望が悪の負債からの解放のために赴くべきただ一つ残された方向を指し示しもする。ナベールによれば、我々の正当化の希望は、一切の自己のイニシアチヴに由来する行為から完全に離れて、「無償の行為」を行う他の意識との出会いへと委ねられざるを得なくなるのである。おそらく、そのような無償の行為の具体的なものの一つとして、ナベールが彼の遺稿である『神の欲望 Le désir du Dieu』(1966)で言及している「赦し」を考えることは間違いではないだろう。赦しは、無償の仕方で無条件的に他の意識の罪を背負い、それを消し去り、赦された存在者らの内に意識の一性を復活させる。だが、ナベールが「神的な行為」と呼ぶ赦しの他者との出会いは、全くの偶然性に委ねられている。それは、歴史の必然的な展開や計算可能性とは一切無縁であり、悪の負債を負うことの見返りとして「しかるべきときに」赦しが訪れることを保証してくれる何ものも存在しない。つまり、我々は赦しの訪れに対しては、なお無力なままなのである。唯一つ確実なことがあるとすれば、合理的計算によってであれ、精神的な弱さによってであれ、悪の正当化できないものの真の重みを負うことを避けるのは、見かけがどうあれ、悪からの救いの道を遠ざけることにしかならないということ、このこと以外にはないだろう。なぜなら、悪の自覚の徹底化という孤独の道を措いて、他者との真の出会いの可能性を開くものはないのだから。

京都大学文学研究科21世紀COEプログラム 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「新たな対話的探求の論理の構築」研究会 / 連絡先: dialog-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp