氣多 雅子 (文学研究科 宗教学専修 教授)
宗教的寛容の問題は、十七世紀のヨーロッパ社会において切迫した政治的社会的論争の主題であり、ロック(1632-1704)の寛容の思想は、そのような現実の政治的宗教的争いを受けて、形成されたものである。この思想は、純然たる哲学的ないし神学的議論とは性格を異にする。ラテン語で書かれたこの『寛容書簡』には、抗議派(Remonstranti)、反抗議派、ルター派、カルヴィン派、再洗礼派、ソシヌス派、長老派などのプロテスタント諸派、聖ヨハネのキリスト教徒、ローマ・カトリックの名称と、マホメット教徒、ユダヤ教徒、アメリカの異教徒、無神論者という名称が出てくる。(ちなみに、ポプルの英訳本では、プロテスタント諸派の名称は、当時のイングランドの状況に置き換えて、長老派、独立派、再洗礼派、アルミニウス派、クェーカー派などとなっている。)つまり、この書の寛容思想は、十七世紀ヨーロッパにおいて宗教が多元化し、激しい争闘を引き起こしたという現実の状況に対する、真摯な思想的応答であり、具体的な処方箋であった。それ故、「新たな対話的探究の論理の構築」というテーマをもつ我々の研究の初期の段階に、この書の思想を把握しておくことは必要かつ適切であろう。
『寛容についての書簡(Epistola de Tolerantia)』は1689年にオランダのハウダで、著者名を伏せて出版された。クリバンスキーによれば、この書が書かれたのは、盟友シャフツベリー伯の失脚後、彼がオランダに亡命していた時期、1685年11月から数ヶ月の間であった(1)。題名に「書簡」とあるように、手紙の体裁をとったごく短い論文であり、アムステルダム在住のレモンストラント派の神学者リンボルク(Philip van Limborch)との間でなされた議論がこの『書簡』の執筆を促したと考えられている。匿名で出版されたことに関してであるが、オランダでもイギリスでも、著者がロックであることはすぐに噂になったにも拘らず、ロック自身がこの書を自分の著作であると認めたのは、その死の数ヶ月前であったと言われる。彼が著者であることを隠し続けたのは、この書の思想が当時において大いに刺激的なものであったからだと推測される。
ロックは『書簡』以前にもいろいろな著作で、宗教的寛容の問題について言及しており、その内容には変化が見られる。1660年頃のロックは、国教会派の立場から、為政者が社会の平和と福祉のために他派の礼拝形式を統制することを是認するという保守的な意見を開陳している。1667年の『寛容論(An Essay concerning Toleration)』(未刊)では、為政者の宗教的寛容が主題として論じられた。その約二十年後に書かれた『書簡』は、ロックが宗教的寛容について最終的に到達した考え方を示す著作だと見なされている。
そして、クリバンスキーが「冗漫で読みにくいことの多い寛容の問題を扱った多くの先行作品から、ロックの『書簡』は、その簡潔な論考の仕方や、実際的政策に関するその基本的感覚の点で、また難解な思弁も神学的論争も含んでいないという点ではっきりと区別される」(2)と述べているように、この書はその論述の水準によって、他の作者の論述に比して特に高く評価されている。それだけでなく、この書の内容は、十七世紀のイギリス市民革命がめざした信教の自由の内実を示すものだと見なされている。したがって、その後の寛容の問題に関する議論はこの『書簡』を出発点とすることになるのである。また、この書は出版されて直ちにウィリアム・ポプル(William Popple)によって英訳され、ラテン語版ではなく英語版が流布することになるが、それをトマス・ジェファーソンが読み、「ヴァージニア権利宣言」の起草に大きな影響を与えたことが、この書の意義をさらに大きくしている。アメリカ合衆国憲法に規定される信教の自由は、ジェファーソンの思想に基づいている。
なお、ポプルの英訳については、いろいろな問題が指摘されている。ロックはこの英訳本に関して、「後に私の関知することなしに(without my privity)英語に翻訳された」(3)と述べている。この「私の関知することなしに」という語句をめぐって、「私の知らないうちに」と解するべきか、「私の同意なしに」と解するべきか、研究者たちに論争があるようである。こういう論争が出てくるのは、ポプルの英訳がラテン語版の厳密な逐語訳ではなく、内容的に微妙な違いが存するからである。しかも、英語版にはポプル自身による序文が付いており、「絶対的な自由、公正で真正な自由、平等で不偏不党な自由こそ、我々が必要としているものである」というロックより一段と急進的なポプルの主張が表明されている。訳文の内容にも、このポプルの立場が反映している。したがって、ロックの寛容思想を研究するには、あくまでラテン語版に基づくべきであろう。しかし、現代の信教自由の問題は、世界政治・世界経済におけるアメリカの抜きんでた地位によって、アメリカ社会の考え方が最も大きな影響力をもっている。それを考慮すると、ポプルの英訳版はそれ自体で研究されるべき意義をもっていると言えるであろう。
『書簡』を貫く基本的立場は、国政の問題と宗教の問題とをはっきりと区別すべきだということである。
ロックによれば、「国家とは、市民の財産を保持し促進するためにのみつくられた人間の集まりである」(4)。この場合の「市民の財産」とは「生命、自由、からだの健康と苦痛からの解放、土地とか貨幣とか家具その他のような、外的な事物の所有」を意味する。これらの事物の正当な所有をすべての人民のために整え保護するのが、為政者の義務であり、逆に言えば、為政者の全権限はこれらの財産を配慮し増進することにのみ制限されるというのが、ロックの主張である。
それは逆に言えば、魂の救いには政治的な権力の支配が及ばないということを意味するが、その理由を彼は三つ挙げている。第一は、魂の救いについての配慮は、為政者に限らず、他人によってなされ得るものではないからである。救いをもたらす宗教の力と効験は信仰にあり、信仰は他人の指図によっていだかされるものではない。第二は、為政者の職権はすべて外的な力による強制にあるが、救いをもたらす宗教は心の内的な確信のうちにあるからである。第三は、法の権威や刑罰の力が人の心を変えることができても、それは魂の救いには無益だからである。これら三つの理由は、結局、一つのことに収斂する。
だが、宗教の事柄は、個人の内的な確信の問題に止まらない。宗教にも公的な側面がああり、外面的な行為が問題にならざるを得ない。ロックは、教会とは何か、教権とは何か、を論ずることで、その問題についての主張を明らかにする。
ロックは、「教会とは、魂の救いのために神に受け入れられるだろうと信じるやり方で、神をおおやけに礼拝するため、人々が自発的に結びついている自由な集まりである」(5)と述べる。「自由で自発的な結社」であることで、教会は国家とは根本的に異なる。このような自由な結社も一定の法秩序をもたなければならないが、それを規定する「教権」と「教会法」は、神の公的な礼拝とそれによる永遠の生命の獲得というこの教会の目的にもっぱら従うことになる。即ち、教会の成員は、外的な財産の所有と使用に関しては、何ら教権と教会法は及ばない。では、教会権力とはどのような仕方で働くのか。その最高にして究極的な力は、成員を教会から追放することであり、教会法による最終的な処罰は、処罰された人がその教会の一員でなくなることだとされるのである。(なお、「教会(ecclesia)」は「宗教的結社(societatis religiosae)」とも言い換えられており、実際にはロックの念頭にあったのはあくまでキリスト教の教会であったにせよ、教会を社会的組織体の一形態として捉える視点は教会の概念規定を他宗教のそれへと敷衍可能なものにしている。)
この区別によって、宗教と国家とは、それぞれ互いに侵害されるべきでない別の領域に属するものとなる。ロックは、支配権は恩寵によって基礎づけられているというウイクリフの主張には真っ向から反対する。国家(世俗)と教会(宗教)とは、その起源においても、目的においても、本質においても、全く異なっていると見なされるのである。この考え方は、当然、イギリスの国教会のような政治的体制と一体化した教会のあり方を退けるものとなる。
この場合の「寛容(toleration)」という概念の反対語は「押し付け(imposition)」「干渉(interposition)」であり、「寛容」は第一義的には、為政者が個人の信仰と礼拝に干渉しないことを意味すると解される。為政者(国家)が個人に対してもつ強制力は圧倒的なものである故に、宗教的寛容はまず国家に対して求められる。その理論的根拠が宗教と国家の原理的区別であり、その区別が近代市民社会の「政教分離」の原則として仕上げられてゆくのである。
ロックがこのように国家と宗教の領域を区分したことは、二つの意義をもつことが可能である。第一は、国家権力から人々の信仰を守るということ、つまり、信教の自由に基づく公的空間としての教会を守護するということである。第二は、教会の容喙から国家を守るということ、つまり、宗教の立ち入らない領域を確保するということである。ロックの記述は直接には第一の意義に即しているように解釈できるが、人々の信仰に国家権力が介入するに至る要因は、為政者の属する教会がその教会の教義や儀礼を全国民に強制するように為政者に働きかけることだと考えられる。したがって、ロックの政教分離は、むしろ第二の意義に重点を置きつつ、両方の意義をもつものと解釈されよう。
『書簡』に影響を受けたジェファーソンは政教分離を第二の意義で理解し、合衆国憲法改正第一条の成立に尽力したと言われる(6)。各州において政権に対して教会が強い力をもっていたアメリカの当時の事情が、その意味での政教分離規定を要求したのであろう。だが、イギリスをはじめヨーロッパにおいて近代市民国家が形成され成熟する過程では、国家が教会に対してはるかに強大な力をもつものとなっていった。政教分離の原則は、そこでは、強大となった国家権力から信教の自由を保障するものとなった。日本国憲法の政教分離規定も、最高裁によれば、信教の自由を守るための手段として位置づけられている。
このようなロック以後の政教分離原則の展開を考慮すると、ロックの規定は、国家の国民に対する強制力を限定されたものとして提示した点、それから、国政の領域を宗教中性的(religiously neutral)なものとして囲い込んだことで信仰と精神的活動に一層の自由を確保した点において、近代市民国家の形成に重要な意味を持っていたと評価される。宗教は国家外の領域を代表するものであるが、教育や経済もそこに含まれてくる。そこは社会の自由な活動に委ねられる領域であって、この領域の豊かさから、宗教的寛容だけでなく人身的拘束の排除、契約・移転・言論の自由などの「市民的自由」と呼ばれる自由権が結実してきたと考えられる。この自由の領域の確保と国家の強制力の限界付けとは相関的であり、近代市民革命によって国家はこの相関性の上に再構成されたのであって、現代世界の我々の国家もその延長線上にある。ロックが『政府論二論』で著した市民社会のあり方は、名誉革命におけるブルジョワ自由主義思想を代表するものだと見なされているが、彼の『書簡』が当時の寛容の思想の到達点を示すものと解されるのも、市民国家の理念の成熟と寛容思想の成熟とは切り離せないものだからである。
しかしまた、「市民の財産を保持し促進するためにのみつくられた」(強調筆者)というロックの国家の規定は、現代の我々にとってどこまで妥当と言えるであろうか。近代国家はブルジョワジーの国家から大衆国家へと転換し、人々は文化的な生活の維持や福祉の保障を国家に求めるようになった。たとえば、我々がよく耳にしている「福祉国家(welfare state)」という言葉は、ヒットラーの支配するドイツに対立する国家のあり方としてイギリスのテンプル(W. Temple)が提唱したものであるが、先進諸国において二十世紀の国家の果たすべき役割を指し示してきた概念と言える。「福祉国家」とは「完全雇用と社会保障政策によって全国民の最低生活の保障と物的福祉の増大とを図ることを目的とした国家体制」(7)を意味するが、この目的のために政府が積極的に市場に介入して是正を行うような経済体制をも伴っており、国家の行政権は拡大し、国家が国民生活に深く関与するようになった。しかし、一九七〇年代以降、財政的問題から福祉国家の危機が語られるようになり、グローバル化が進行する経済の動向とあいまって、現在では国家の役割が縮小される方向にあるのは周知の通りである。たとえばアメリカの多国籍企業は一方で小国の経済を破綻させるほどの強大な経済力を有し、他方でアメリカの国益に支配されずに独自の原理で動くように、現代世界では「国家」が必ずしも最強の強制力の主体ではなくなっている。その一方で、現代の国家の立法府・行政府は人間の死の判定にまで口を挟むようになっている(脳死問題)。科学技術に浸透された我々の生活形態が、生老病死の問題にまで国家機関の関与を必要とするようになっている。ロックの時代には国家の本質や起源をめぐる議論が政治や経済や社会を主導する役割を果たしてきたが、現代世界では国家の本質や理念を語る地平が変容していると言わねばならないであろう。
そして、現代世界では宗教について語る地平も変容している。ロックの時代に国家の役割がかように限定されていたのは、教会が担っていた大きな社会的役割を侵害しないためであった。他方、現代の「小さな政府」という方向付けによって、これまで政府が担ってきた大きな役割の或る部分を民間の営利組織ないし非営利組織が代替することが期待されているとしても、そこでの宗教的結社の役割はきわめて限定されたものになるであろう。
「寛容」はしかし、為政者だけに求められるのではない。ロックは、上記のように国家と教会とを区別した上で、教会、私人、聖職者、為政者が寛容に関して如何なる義務を持つかを改めて論じている。それを要約すると、以下のようになる。
第一に、寛容であれという要求は、宗教的結社が結社の法の違反者を除名することを妨げないが、除名のもつ効力が、除名された者の市民の身分や財産に決して及んではならない。
第二に、如何なる私人も、別の宗教や他の礼拝形式を奉じているという理由で、他人の市民的財産を侵害したり毀損したりしてはならない。また、この私人相互の関係に求められることは、諸教会相互の関係にも同じように求められるべきである。教義の真実性と礼拝の純粋性との関する二つの教会間の論争に判定を下すことのできる裁判官は、地上のどこにもいないからである。そして国家もまた、宗教を口実にして、相互に市民の財産を犯したり、世俗の権力を奪い合ったりする権利はない。
第三に、主教や司祭や長老や牧師などの聖職者は、宗教上の差異を理由に、懲罰のために、他人の生命や自由や財産を奪い取ることはできない。ただ議論の力によって、他の人々の誤りを打破するようにすべきである。
第四に、為政者の義務は、人民の魂の配慮を含まない。法は、臣民の財産と健康とを他人の暴力や欺瞞からできる限り守ろうとするものであり、自分の健康への配慮、自分の資産への配慮、ならびに自分の魂の配慮は本人自身に委ねられるべきである。したがって、為政者が、魂の救いについて教会の命令に従うことを人民に命ずることも認められない。
以上のように、ロックは、それぞれの主体における寛容に関する義務を論じている。これらの論述の最終的論拠となるのは、すべての人の魂の配慮はその人自身に属し、その人自身に委ねられるべきだということである。
そして、ロックは、魂の配慮を自分自身と自分自身の良心とに委ねるべきであるということの次に、人間のなすべきことは、公の集会に結集して神を公に礼拝することであると主張する。「それ故、この自由に身を置く人間は、教会という結社に入らなければなりません。その目的は、ただ相互の啓発のために集まりを行うだけではなく、自分たちが神の礼拝者であるということと、自ら恥ずることなき礼拝を、また神に対して不適当ではないし、神に受け入れがたいものでもないと思われる礼拝を、至高なる神に捧げるということを、公然と世の人々に示すためでもあるのです。そしてさらに、教義の純粋性と、生活の清らかさと、典礼の慎み深い美しさとによって、他の人々を宗教と真理との愛へ引きつけ、ばらばらの個人によってはなされがたい他の事柄を実現するためでもあります」(8)。
この公開性は教化伝道のために不可欠なものであるが、それは魂の配慮の徹底した個人性と不可分の関係にあるであろう。つまり、自分の救いへの配慮はただ自分ひとりにのみ関わり他人にはまったく関係ないと考えられるために、公開的な礼拝によらなければ、宗教は外的には知られ得ず、他者に伝えられ得ないと解される。だが、救いがあくまで自己の問題であるということと、自分の救いは自分ひとりにしか関わらないということとは、宗教の事柄の理解として区別されなければならない。ロックの主張は後者に強く傾いているように思われる。ロックは明言していないが、魂の救いを、個々の人間の精神的能力の問題、ないし注意・努力・勤勉さの問題として捉えているふしがあるが、そういう捉え方は救いの個人性を非常に狭小なものにしているように見える(9)。
この捉え方は、ロックの宗教理解の一つの限界を示しているのではなかろうか。救いを個々人の能力や意思の事柄として捉えることは、結局、信仰を個人の主観的な意見や思想と同列に置くことになる。宗教における個人性を突破するような仕方で開き出される普遍性は、ロックの視界には入ってこない。それが視界に入ってきたとき、宗教はデモーニッシュな働き方をもすることが見えてくるはずである。だが逆に言えば、宗教のデモーニッシュな働き方を切り捨てるからこそ、ロックにおいて宗教の公的側面が国家の仕事と穏健に調整され得るものとなっているとも言える。礼拝の公開性と、自分の主義主張を他者に伝え他者と共有するようになるための講演会や市民集会の公開性との間に、断絶はなくなるからである。
伝道ということは、ある種の政治的態度を必要とする。宗教の公的側面は、もし国政の領域のみを公的領域(官)と呼ぶならば、私人の自由な行為に関わる私的領域に属することになる。ハーバーマスの言うように、この私的領域から市民的公共性が生い出ると解したならば、宗教の公的側面はこの市民的公共性が成熟する母胎としての役割を果たすものであった。ただし、ロックの言う意味でのこの宗教の公的側面は、自ら政治的なものに接近してゆく傾きをもっているように思われるが、それは救いの個人性がこの公的側面を純粋に維持するだけの膂力をもたないからであろう。近代の私的領域はやがて世俗化されてゆくが、そこで宗教の公的側面もある種の世俗化の影響を被る。バーガーの指摘するように、現代社会の宗教的結社の管理運営が官僚制化しているのは、その例である。宗教はその純粋な形態としては、私人の自由な活動の領域のなかでさらに個人の内面という小さな領域に囲い込まれてゆく。これが、宗教の私事化の現象である。
だが、ロックが行っている宗教の公的側面と国家の公共性との調整の仕方には、きわめて興味深いものがある。それは、寛容の内容をさらに明らかにすることである。彼は、外面的な礼拝と内面的な信仰とに分けて詳しく論じる。
外面的な礼拝形式ないし典礼については、次のように論じられる。即ち、典礼には、神の権威によらずしては、何ものも持ち込まれるべきではない。教会は自らのやり方で神を自由に礼拝することができる。しかし為政者は、教会の集まりにおいても、世俗の生活において合法的でない行為や国家に危害が及ぶ行為、たとえば幼児を犠牲にしたり、雑婚を行ったり、牧畜業が危機に陥っているときに牝牛を犠牲することについては禁止することができる。その際、為政者は公共の福祉という口実で、権利を濫用しないように、最大限の注意をはらうべきである。為政者のこの寛容な態度は、キリスト教諸派の教会に対してだけでなく、偶像崇拝を行う異教徒に対しても全く同じように維持されなければならない。
続けて信仰について、次のように論じられる。即ち、世俗の法が、もっぱら信仰のために必要とされる思弁的な教義や信仰箇条を取り決めることは、決してできない。現世の財産を守るために社会に加わった後に、私人には来世の生活に関して、自分が神の御心にかなうと信じていることを行えるという自由が残される。そこで各人において、まず第一に神への服従が、しかるのちに法への服従がなされねばならない(10)。もし為政者が個人の良心にとって不法と思われることを命じたとしたら、個人はその命令に従うべきではない。他方、為政者によって寛容に扱われるべきではない教義は、人間の社会と相容れない教義、あるいは市民社会の維持に必要な道徳に反する教義であり、自分たちだけが特別な権利をもっていると見なす教義、あるいは自分たちの教会に属さない人々に対して支配権を認めるような教義であり、また、その教会に加入すること自体によってよその君主に服従することとなるような教義である。さらに、為政者によって寛容に扱われるべきでないのは、神が存在することを否定する人々である。
以上のロックの議論のなかで注目されるのは、為政者の寛容がすべての教義、すべての人々に対して求められているのではない点である。カトリック教徒は、その教会に属することによって教皇に服従することになる故に、寛容から除外されることになるであろう。無神論者も寛容から除外される。この除外は、宗教的寛容が絶対的無条件的なものではなく、社会における政治的な影響を測って相対的に求められるものであることを明確に示している。そもそもロックが一般に宗教的寛容を為政者に要求するのは、社会の平和と安定のために、寛容の方が不寛容よりも有益だという理由からである。したがって、ロックの精神に従って現代世界で寛容がどのように説かれるべきかを考えると、近代市民社会の維持を危うくするような宗教や宗派に対しては不寛容であるべきだということになろう。そして、どの宗教や宗派が危険なものであるかの判断は、どこまでも実際的になされるべきである。それは、国内事情に注目するときと、国際的な関係に注目しなければならないときとでも違ってくるような微妙なものであろう。
なお、無神論者については、特に言及しておく必要がある。ロックは、神が否定されるならば、人間社会の絆である約束や、契約や、誓約は根底において崩れ去ってしまい、社会的無統制が帰結すると考える。つまり、無神論は内的な信念に止まるものではなく、実践的な帰結をもたらすものである故に、寛容されるべきではないとされるのである。しかし、世俗化の進行した現代世界では一般に、キリスト教徒の社会的実践と無神論者の社会的実践とは必ずしも乖離しない。第二ヴァチカン公会議(1962〜65年)は『現代世界における教会に関する司牧憲章』の中で、「無神論という用語は、相互に大きく異なった種々の現象をさしている」と述べて、次のように列挙する。
「明らかに神を否定する人もあれば、人間は神についてまったく何も言うことができないと考える人もある。また、ある人々は、神に関する問題は意味がないと思わせるような研究方法を用いてこの問題を取り扱う。多くの人は不当にも実証科学の分野を越えて。あるいは万事が科学理論だけで説明できると主張し、あるいは反対に、どのような絶対的真理も完全に否定する。ある人たちは人間をあまりにも礼賛しすぎるために、神への信仰が無気力になってしまうが、これは神の否定よりは、人間の肯定に力を入れすぎであると思われる。ある人々は神の問題を取り上げようとしないが、それは宗教的不安を感じないと思われ、また、なぜ宗教について関心を持たなければならないかが理解できないからである。そのほか、世の罪悪に対する激しい反発からも、また、ある人間的価値を不当に絶対視して神格化することからも無神論が生じることがまれではない。現代文明そのものも、その本質からではないが、あまりにも地上の事柄に夢中であるために、しばしば神への接近をいっそう困難にすることがある。」(11)
現代文明の支配する世界では、人々の世界理解自己理解はむしろ基本的に無神論に浸されているのであって、信仰ということは無神論への抵抗のなかで獲得されるといった方が適切であろう。そのような信仰は、有神論的であると同時に無神論的であるということもあり得る。もっとも、一九八〇年代から世界は世俗化ではなく、再聖化つまり宗教の復興に入ったという理解もある。しかし、復興した宗教は、宗教中性的な政治経済活動および精神活動との対比を決定的に刷り込まれている。それはこの対比を知らない宗教性とは根本的に質を異にしており、神なき世界が刻印された宗教性であると言ってよかろう。有神論者と無神論者、宗教者と宗教を否定する者とをはっきりと切り分けることは、現代ではますます困難になっており、また無意味にもなっている。ロックの視野では、宗教上の争いとはまず第一に、イギリス国教会とピューリタン諸派とカトリック教会というキリスト教のなかでの争いであった。現代世界では、それはイスラム教、キリスト教、ユダヤ教、仏教等、諸宗教の間の争いであるとともに、宗教という事柄への関心が根本的に異なる者の間の争いでもある。関心の異なる者の間の争いというと、たいした問題ではないように聞こえる。しかし、宗教への関心の異なる者同士の相互理解は、異なる宗教を奉ずる者同士の相互理解よりもしばしば困難である。
「無神論」という言葉の用い方が変化していることと連関して、「宗教」という言葉の用法がロックの時代とは大きく違ってきている。ロックの『書簡』のどこにも、「宗教」という言葉の定義はない。この言葉の定義は、その時代に何ら必要なかったからである。
しかし、現代ではこの言葉が何を指すのかが実際的に問題にならざるを得ないのであり、それに現代でいちばん苦慮しているのはアメリカの議会と裁判所であろう。
アメリカ合衆国憲法改正第一条には「連邦議会は、国教を定立しもしくは宗教活動の自由を禁止する法律を制定してはならない」とあり、同憲法第六条には「宗教上の宣誓は、合衆国の官職または信任による公職に就く資格要件として要求されてはならない」とあるが、いずれの条項にも「宗教」が何を指すかについての定義はない。それが二十世紀中頃以降問題になってきたのは、憲法制定当時には思いもよらなかったような内容の宗教がアメリカ社会にさまざまに出現し、この条項によって保護されることを要求してきたからである。特に一九六〇年代以降、世界各地の宗教がアメリカに流入したが、仏教や道教などの東洋の宗教は、キリスト教的な意味での「神の存在を信ずる」宗教ではなかった。それらの影響下で新たに生み出された宗教も、多種多様であった。その多種多様さは、宗教の私事化の傾向とあいまって、各人が各人の信仰をもつ傾向が強まったことで、際限のないものとなった。ロックは、信仰の自由をもつ個人は教会に加入しなければならないと考えたが、「信者ひとりの教会」という考え方が出現してきたのである。合衆国連邦最高裁判所は一九六一年に、メリーランド州憲法の権利宣言の中の規定を違憲とする判決において、「倫理教育」や「世俗的ヒューマニズム」も憲法の規定にある「宗教」という言葉に包摂されるという判断を示した(12)。
宗教とは何かということは、「良心(conscience)」という言葉が用いられるとき、さらに複雑になる。ロックも宗教的な心のあり方を表すものとして「良心」という言葉を使っているが、「良心」はキリスト教世界において伝統的に宗教的なものを意味した。ところが、無神論が先述のような多義的な現象として現れてくると、非宗教的なものとして「良心」という言葉を用いる用い方が出てきた。一九六五年の三人の良心的兵役拒否者をめぐる判決で、"連邦最高裁は、一九一七年の徴兵法では、良心的兵役拒否者は成員に如何なる形での戦争参加をも禁じているところのよく知られた宗派に属することを要件としていたが、一九四〇年の徴兵法では、「宗教的修養と信念」とのために如何なる形の戦争参加をも良心的に拒否する者に兵役を免除するという規定に変更された"と判断した。教会や宗派の成員であることよりむしろ、個人の内的な信念の方が、人間の行動を決定する上で重要な意味をもつと見なしたのである。だが同時に、最高裁は「良心」が宗教的信念を内容とするものであることに限定されると明示した。徴兵法を制定した連邦議会は、「政治的、社会学的、もしくは哲学的な見解、または単なる個人的な道徳律」に基づいて戦争に反対する者に兵役免除を認めなかったというのである。我々にとって特に興味深いのは、個人の哲学的および道徳的判断と宗教的信念との間に明確に一線が引かれ、憲法改正第一条が宗教的信念にのみ特別の保護を与えているという点であろう。
良心的兵役拒否者に兵役免除を認めることは、個人においては神への服従が法への服従に優先するというテーゼが、ロックからジェファーソンに受け継がれ、アメリカ合衆国において制度的に定着していることを意味している。しかし、このテーゼの法制化は矛盾をはらむことなしには不可能であり、このテーゼはさまざまな形で国家の有り様を脅かす可能性をもっている。国家と宗教の分離、外的行為と内的信念の区分は、現実の事象においてどこで線引き可能か、今後も厳しく試され続けるであろう。政教分離、信教の自由ということに関して、『書簡』における個々の規定が現代世界でも妥当するか否かを検討することはあまり意味がない。「宗教」や「良心」という言葉の意味内容が、時代社会とともに大きく変容するからである。そして、政教分離、信教の自由という問題地平は、「宗教」や「良心」や「国家」や「権利」などの基本的概念が変容する問題地平なのである。
ところで、「寛容」は一つの徳目である。寛容であることはofficium(職務、義務)であるという言い方がされるが、ロックは「自然権」としての「信教(宗教)の自由」乃至「良心(信仰)の自由」までは主張していないと理解される。(ただし、ここには微妙な問題があり、ポプルの英訳本では既に自然権としての信教の自由が主張されているという解釈がある(13)。)人間の自然天賦の権利として信教の自由が明示されるようになるのは、一七七六年のヴァージニア権利宣言以降である。一九四八年に国連総会で採択された「世界人権宣言」では「思想、良心および宗教の自由」が天賦の権利として扱われ、一九六六年に採択された「国際人権規約」よって、この権利は規約に署名した諸国において条約としての拘束力をもって保護されるに至っている(14)。
「基本的人権」という観念が成立してきた背景には、言うまでもなく近代の自然法の思想があるが、ロックはまさに近代自然法の思想の確立者の一人であり、彼の思想体系における寛容と自然法との関係は興味深い。
既に見たように、ロックによれば、為政者の宗教的寛容には実際的な限界が存する。為政者においてはこの世での人民の平和と安全を保護する義務が、すべての他の義務に優先するからである。だが『書簡』では、為政者に関する寛容の義務を説くのに先立って、教会における寛容が説かれていることが注目されるべきである。『書簡』の論述が「寛容が真の教会のとくに重要な規準だと思われる」ということから始められるように、寛容は何よりもまずキリスト教徒のキリスト教徒としてのあり方の問題という形で提示される。ロックは、ルカ福音書の第22章(25、26)に基づいて、異教徒と違うキリスト教徒としての特質が「生活を正しく敬虔に規制する」(15)ことにあると述べる。「生活を正しく敬虔に規制する」という真の宗教のあり方、即ち真のキリスト教徒のあり方から、信仰を異にする人々への「寛容」が説かれる。そして、宗教的な意見の異なる人たちに対して不寛容であるのに、「姦通、放蕩、汚れ、放縦、偶像崇拝など」の罪悪と不徳義に対しては寛容であるという態度が、キリスト教徒にはあるまじき態度として厳しく非難される。教会の場合には、寛容は職業上の義務としてのofficiumではなく、キリスト教徒の道徳的義務としてのofficiumなのである。
道徳的義務としての寛容は、内容的に限界が設けられる性格のものではなく、道徳的要求の高さが強く意識される性格のものである。「明らかに異教のにおいのする、放蕩や狡猾や悪意やその他のこと」というような表現に明示されるように、キリスト教徒は異教徒に対してその道徳性の高さによって特徴付けられる。「宗教を口実として、他人を迫害し拷問し略奪し殺戮する」ような「異教的行為」に対して、ロックは「寛容」をキリスト教徒を際立たせる徳目として説くのである。
こうしてみると、寛容の概念には政治と宗教とさらに道徳が関わっており、しかも道徳性はこの概念の要となっているように思われる。ロックにおいて、道徳の領域とは「自然法(lex naturae)」の支配する領域であり、自然法とは神の意志の一つの表現と見なされる。神の絶対的な命令である神の法は、理性という「自然の光」によって人間が知ることのできるもの、即ち自然法(道徳的規範)と、神の特別な啓示によって与えられるもの、つまり神の実定法(福音書)に分けられる。そして『書簡』では、宗教の問題について意見を異にする人々に寛容であることについて「福音書と理性とは一致している」(16)という言い方がされる。「福音書が命じ、理性が勧める(hoc jubet Evangelium, suadet ratio et)」(17)という表現もある。ロックが自然法を神の法の一部と見なすスコラ的立場をとる以上、福音書の命ずるところと理性が明らかにするところとが不一致となることはあり得ないであろう。理性と啓示の一致ということは『人間知性論』(1689年)でも論じられている(18)。先述の神への服従と法への服従についても、ロックは、教会が真の教会であり、国家が理性的に運営されている限り、両者が相反することはあり得ないと考えているように思われるが、現代世界ではあまりに楽天的に見えるこのような確信は、この理性と啓示の一致から発源するものであろう。
ロックの自然法思想で特徴的であるのは、自然法が確かに存在するとしながらも、それが人間社会に内在的に与えられてはいないと考える点である。自然法は、神によって人間社会に対して超越的に与えられるのである。これは理性の問題として言えば、自然法は理性に生得的知識として刻印されているのではなく、理性そのものが命ずるものではないということである。この考え方は、一方で、自然法(道徳的規範)の認識が神の存在の認識を必要とすることから、自然神学を要請するものであった。近代の自然法思想はしばしば理神論と結びつくが、ロックの自然法論は理神論を否定する立場となっている(19)。他方で、それは、自然法を認識する能力としての感覚と理性をめぐる固有の認識論の展開を促すことになった。
この独特の自然法思想が彼の「寛容」という概念の背景に拡がっていることは明らかである。ロックは『自然法論』で「自然法は自然権とは区別されるべきである」(20)と述べて、自然法が人間に対してそれへの服従を要求する義務の原理であることを主張する。寛容がもっぱら「義務」として語られるのは、その故である。寛容が信教の自由という自然権になるには、ロックとは別様の自然法の思想に基づかねばならない。ロックの思想体系において、寛容は啓示神学ないし自然神学のなかに直裁に根拠をもつものであると考えられる。そのために、ロックの寛容の思想は、自由権としての信教の自由という概念よりも世俗化しにくいものだと言えよう。先述のように、世界理解が何らかの程度無神論に浸されているような現代社会においては、寛容という概念は政治的には不適切になっていると解される。
だが、我々の研究会のテーマとの連関で付言しておきたいのは、信教の自由および政教分離原則は、近代市民国家という制度と自由主義的民主主義というイデオロギーとが普遍的な政治原理として伝播してゆくのに重要な役割を果たしたということである。つまり、それらは世界の政治体制と経済制度を標準化し、人間の社会的関係に関する人々の価値観を一元化するのに貢献したのである。それに対して、宗教的寛容という概念にはそのような一元化を促す要素は稀薄であるように思われる。
寛容という概念が直ちに指し示すのは、宗教者が宗教上の意見を異にする者に対してどういう態度を取るかという問題である。この態度は、それぞれの宗教思想の固有性を侵すことなく、宗教者に課せられることができる。だが、寛容をこのように宗教者の他者への態度と限定したとき、tolerantia(寛容、忍耐)という態度の問題性が見えてくる。tolerantiaというのは、自分の世界はまったく安全なままにして、相手が相手自身の世界をもつことを許容する態度であろう。そこに読みとれるのは、相手の宗教的立場を侵さないということと同時に、むしろそれに先立って、自己自身の宗教的立場が何ら変容される必要がないということである。したがって、この態度を、自宗教と他宗教が互いに相手の宗教的世界を侵さないという相互不可侵として理解することが可能であろう。だが、自宗教を優位において、その優位性に基づいて他宗教の存立を我慢することとして理解することも可能であろう。
ロックの寛容の論述は、明らかに異教に対するキリスト教の絶対的な優位性に立っている。そこには確かに時代的な制約があることを否定できないが、それを越えてここには、或る宗教が成立するということのなかに本質的に含まれている問題が見て取れる。即ち、或る教えを唯一真なるものとして受け取るということは、それと異なる教えを排するということと表裏の関係にある。教えへの帰依が深くなればなるほど、異教の排斥が激しくなるであろうことは、容易に理解できる。なお、この場合「教え」ということは「教義(dogma)」と同義ではない。教えへの帰依とは、いわばここに真理があるという揺るぎない確信であると解されるが、この帰依がどのような仕方で熟成されてゆくかによって、異教の排斥のあり方も変わってくるはずである。この帰依がドグマへの帰順という形を取るとき、異教の排斥はおそらく他のドグマに帰順する者への迫害や暴力という形を最も尖鋭的に取るであろう。
寛容とは、異教徒を迫害するという形での異教の排斥を自らの信仰において否定することである。だが、寛容の限界は、その否定を自らの信仰の優位性を維持するために遂行するところにある。異教の排斥だけを否定するという仕方で、信仰の深まりを追求するということは、いびつな帰依のあり方になる。
かといって、寛容を宗教的世界の相互不可侵として理解することは、信仰が異教の排斥をその裏側にもつということに気づかないか、或いはそれに目を塞いでいるか、そのどちらかでしかない。そのような単純な相互不可侵は、いわば信仰の牙を抜くことによって可能になるのであり、信仰の牙を抜くということは信仰から背理的なものを削り落とすことである。ロックは理論的には理神論を否定するが、寛容の思想のなかには理神論と共振する傾向が認められるように思われる。
現代では他宗教への関係については「寛容」ではなく「対話」という言い方がよく使われるが、それはこのような寛容という態度の限界が自覚されてのことであろう。したがってこの場合の「対話」とは、異教の排斥を、その排斥を貼り付かせている自らの信仰ともども否定することを意味するであろう。或る教えを唯一の真理として受け取るところで、異教の立場を認めることがどうやって成り立つか、そこで「唯一の真理」そのものが受け取り直される。「対話的探究の論理」をもし宗教という場で考察しようとするならば、そのような自己の問い方が問題となるであろう。そして、信教の自由が自然権として主張される場面においては、宗教間の「対話」はまたそれとは別の位相をもつものとなろう。