6th Meeting / 第6回研究会

 

日本におけるトマス・ヒル・グリーンの受容史から垣間見えるもの

水野 友晴 (大阪外国語大学非常勤講師)


第一章 グリーンの思想的意義と特徴

1 トマス・ヒル・グリーンの背景

河合栄治郎著『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』(日本評論社、昭和五年刊。ただし筆者が蔵するのは昭和一三年の上下合本版)は、グリーンの思想的背景を説明する目的から、「千八百七十年代の英国」と題する二章を特にもうけている。翻って、本発表において私は、日本におけるグリーン思想の受容という特殊的事柄から、一般的な「対話」の理論の構築に貢献することのできる提言を行うことを目的にしている。しかしそのためには、私のいう「特殊的事情」の「特殊」に徹底し、できる限り特殊の実像に迫ることを試みなければならないであろう。そこで、まずは上記の河合の解説に依拠してグリーンが活躍した一八七〇年代の英国の社会的、思想的状況を確認することにしたい。

まず指摘されるべき重要な点は、一八七〇年代に英国は転機を迎えていたということである。一九世紀中葉、イギリスは貿易大国として、また「世界の工場」として世界経済に君臨していたが、一八七三年に恐慌を迎えることになる(資料1)。この恐慌は一時的のものでなく、その後永続的に英国経済は不景気の底に沈むことになる。この恐慌及び不景気が及ぼした影響のうち、思想史的に見て重要なことは、それが従来の自由放任主義に対して人々が不信感を抱くようになったことである。それは、経済面では自由貿易に対する保護貿易の主張として、また政治面では労働者の保護立法の主張として現われてくることになった。

重要なのは、英国における労働立法を主導したのは保守党であったということである。保守党は一八七四年の工場法、七六年の海員法をはじめとして多くの労働立法を作成、通過させ、労働者の労働時間の短縮、雇用・賃金の保障、権利の拡大に貢献した。つまり、七三年の恐慌を機に英国においては社会主義的傾向が現われてくることになったのである。保守党が主導する社会主義的政策に対して自由党は従来の自由放任政策を主張したが、その理論と眼前の労働者の困窮との格差は大きく、彼らは従来の理論を維持するか、これをまげて労働立法などの保護政策に参画するかのジレンマに立たされることになる。ここにいたって必要とされたのは新たなる自由概念の構築である。つまり、労働立法に代表される保護政策に参加することが直ちに自由を意味することになる新たな自由理論の登場がまたれることになった。そしてそのような形での自由主義の転換を英国においてなさしめた人物がグリーンであった (1)

2 功利主義批判

前述のごとくグリーンの思想的背景には、従来の自由放任的自由観の超克ということが存したわけであるが、グリーンはその課題を自由放任的自由観を支える理論を批判することで遂行しようとする。その理論とは、功利主義とその背後にある経験主義の二つである。功利主義批判を中心にグリーンの批判を見ることにしたい。

グリーンは功利主義を全面的に否定するわけではない。グリーンは、功利主義が「万人は幸福に対して平等の機会を要求する」(序説331 pp.363-4)ことを主張したことを評価する。しかしながら続けてグリーンは次のように主張する。「しかしながら功利主義がなした実践的奉仕は、功利主義がなした幸福、あるいは善の分析とは関係のないことであった。その奉仕は最大多数の最大幸福を考慮すべきを主張したことにあるのであって、最大幸福を快楽の最大分量と同視したためではなかったのである」(序説332 p.364)。すなわち、「最大多数の最大幸福」の名で呼ばれるベンサム流功利主義の貢献は、「最大幸福」を主張した点にではなく、その単位として「最大多数」、つまりできる限り多くの民衆を差別なく平等に扱おうとした点にあるとグリーンは見る。それでは「最大多数の最大幸福」の後半部、「最大幸福」の考えになぜグリーンは同意しようとしないのであろうか。それは、最大量の快楽の計量は不可能であるとグリーンが考えるからである。

グリーンは、快楽の総計は快楽を享受する感覚体が維持されているかぎり無限に増大すると主張する。つまり、人間は今日獲得した快楽と同量の快楽ではもはや明日は満足できなくなるのであり、快楽の量をもって最高の幸福を測る標準となすことはできない(序説339 pp.373-4)。したがってグリーンは、功利主義をもって道徳の標準とすることに反対する。それにもかかわらずなぜ人々は功利主義に期待を寄せ、道徳の標準として採用しようとするのか。グリーンは、それは功利主義が「平等・博愛」という一九世紀イギリスの美徳をくみ取る理論であるかのように人々に映るためであると考える。しかし問題はそのような美徳を本当に功利主義が指導しうるかという点に存する。そして、功利主義が採用する快楽計算の方法によれば、「平等・博愛」もまた個人的快楽に還元されざるを得ず、しかもそれは最大量の個人的快楽を生むものでなければならない。しかし博愛に見られるような利他的行為が現実に利己的欲望よりも多量の快楽を常に生むことを立証することは困難である。博愛精神に満ちた社会は確かに幸福に満ちた社会であろうが、実世界の各人が利他的行動によって利己的欲望以上の快楽を常に感じると考えることは安易にすぎる。

要するに望まれるもの(desired)と望ましいもの(desirable)とは同一ではなく、道徳においては本来後者が追及されるべきであるのに対して功利主義においては前者が追及されてしまっている。なおかつ、人々は功利主義があたかも後者を追及しているかのように錯覚している。つまり人々は望ましいものを追及する点では誤っていないが、その追及の手段として功利主義に期待する点で誤っている。ひとことでいえば、人々が陥っている誤謬は、理想と現実との混同にあるとグリーンは見た。グリーンが理想主義に依拠して道徳論を展開するのはこのためである。

3 グリーンの理想主義

グリーンの思想が精神的原理(spiritual principle)と共同善(common good)を二大根幹とするものであることはよく知られた事実である。しかしながらなぜ両者がグリーン思想の根幹に位置しなければならないかに関しては必ずしも知られていない。グリーンは主著『倫理学序説』の本論を「自然に関する知識は自然の一部またはその所産であるか」(序説1 p.13)という問いかけをもって開始するが、それは道徳問題をも自然科学的に説明しようとする当時の英国哲学界の潮流に一石を投じる問いかけであった。そしてグリーンは、知識成立の条件としての「関係」(relations)が、関係の結果としての知識からは決して導かれえないアプリオリなものであることを主張し、関係の概念が自然に先行し、自然の所産ではないことを主張する。そしてこれらアプリオリな関係を関係づける働きとして「精神的原理」の概念が登場する。したがって精神的原理は自然以上のアプリオリなる自然統一の原理である。その意味で精神的原理は無制約的であり、自由である。

構図の理解のために敢えて単純化を行えば、先ほどの望ましいもの(desirable)と望まれるもの(desired)の区別は、望ましいものは「精神的原理」に、望まれるものは「自然」に対応する。グリーンにおいては望ましいものに自然以上という意味が込められていることになる。そして、精神的原理から自然が産出されるのと同様、望ましいものから望まれるものが生み出される。かくしてグリーンにおいては、精神的原理の発見とともに、精神的原理からの自然の導出、望ましいものから望まれるものがいかにして生み出されるかという課題が追及されることになる。

グリーンは、このあるべきものからあるものへの導出が「自我実現」(self-realization)という運動にほかならないことを明らかにする。グリーンの道徳論は欲求(desire)の概念を中心に展開されるが、以下のように概観することができる。欲求は、感性的なる対象にも道徳的なる対象にも発生しうるが、これら複数の欲求のうち相互の闘争から最強度のものが勝利を占めて行為に結実するわけではない。複数の欲求のうち、人(主体)は何が最も己自身を満足させるものであるかを考慮する。すなわち、自我の満足(self-satisfaction)が、人を動かす唯一の動機(motive)である。したがってこの動機によって選ばれた欲求は、彼の全自我の欲望をになうものであり、真正の欲望と呼ばれるべきものである(2)。この真正の欲望は、彼の全自我の意欲するものであるがゆえに、欲望と意志(will)は二にして一なるものである。欲望は行為として実現する。外に現われたのが行為(act)であり、これを内部的に見たものが欲求であり、意志である(河合pp297-8を参考にした)。換言すれば、意志的行為においては、欲求の満足は各欲求の個別的実現が出現するのではなく、その実現が最初から全体的に制約されている。すなわち意志がその全体の流れを規定している。しかしてその規定が自我の満足ということで表現されるわけであるが、それがそのような名で呼ばれるのは、自我が自我になろうとする運動と、意志が己自身の法則に従うということとが同一の作用であると見なされているからであり、意志と自我の働きとが同一視されているからにほかならない。

このことを換言すれば、望ましいもの(desirable)は望まれるもの(desired)を生み出す際に欲求(desire)としてその産出の過程を支配していることになる。そして欲求は望まれるものの背後にある潜勢力であるから、現実的自然の領域を超越し、むしろこれを支配制約する超越論的な働きであることになる。しかしその欲求にも原理がないわけではない。欲求が従う原理は、己自身に徹すること、真に望ましいものを実現させること、つまるところそれは自我実現であることになる。

4 共同善と自由

以上の自我実現の議論に続いてグリーンは共同善の考えを提示する。それは、望まれるものの体系に対する、望ましいものの体系であり、しかもその体系が社会の要求及び期待として出現するとグリーンは主張した(序説199 p.210)。望ましいものの体系が社会の要求及び期待として現われることは一見奇異の感を起こさしめる。しかし、前述のごとく望ましいものの観念は、自我を自我の目的とする意識より起きるのであり、その望ましさは己の生活と無関係ではありえない。つまり、具体的な人間の生活に則した形で望ましい観念が体系化されたものがグリーンの共同善の考えなのである。したがって、共同善を追及するかぎり人は自我実現の原理から外れることがなく、意志的行為を行うことになる。

指摘すべきはここで提示された共同善の考えが「平等・博愛」の名で上掲した一九世紀イギリス流の博愛精神をグリーン流に把捉するものであったことである。すなわちグリーンは労働立法などに代表される当時のイギリスの社会主義的風潮が、自我実現の意識にもとづく望ましいものの体系化のプロセスにおいて現われるものと見なした。つまりグリーンにおいては、このような社会風潮の変化は見かけ上のものにすぎず、本質的な部分では依然として自我実現の原理がなんら変更されず維持されていると考えられている。グリーンは次のように述べる。「隣人に対する義務の感が変わったのではなく、実践上、誰が私の隣人であるかの範囲が変わったのである」(序説207 p.220)。つまり、自我実現の原理に従い、意志的行為を行うことが無制約的な自由の側に人を立たしめるのであれば、人は共同善に参画することにおいて自由であることになる。

ここにいたってグリーンは、自由が自由放任の原理によって導かれるのではなく、かえって共同善の名のもとに社会的制約のもとで導かれることを主張した。たしかに社会的の名のもとで個々人の行動が制約されることは自由の否定と映るかもしれないが、グリーンに従えばそのような形で社会的に逸脱した行為を各人が行った場合、それは意志の自我実現の原理に反するがゆえに各人は自我満足の念を得ることが出来ず、かえって不自由を感じることになる。我々が自由を感じるのは、意志がまったく己の法則にしたがって発揮されたときであり、その際の意志は社会的性格を有するがゆえに、人は社会的な行為を行うことにおいて自由を獲得することができるのである。

かくしてグリーンによって公共性と自由との両立が論理的に保障されることとなり、冒頭に触れたように英自由党は労働立法に代表される保護政策に参加することが自由主義を否定することではなく、むしろ自由を保障するものであるとする新たな理論的根拠を獲得してゆくこととなる。グリーンはかくして自由主義の新たな理論的擁護者としての地位を獲得し、一九世紀末の英国においてはグリーン流の自立した「よき市民」による「同胞共同体」(citizenship, fellowship)の考えに基づいた社会政策が実施されてゆくこととなった。

第二章 日本におけるグリーン受容

以上よりグリーンの思想的課題が公共性と自由主義との調和的統合にあったことが示されたわけであるが、そのような思想家としてのグリーンの実像は日本において正しく伝わり、応用されたといえるのであろうか。以下ではグリーン思想の日本における受容と展開の姿を検証することにする。

グリーンの思想の日本における受容と展開の歴史に関しては、新谷賢太郎の研究(「わが国におけるT. H. グリーンの倫理思想の展開過程」金沢大学教育学部紀要, 第10号, 1962年, pp.111-123.)がある。以下では、グリーンの思想の日本における受容と展開の概略に関してはこの資料に依拠して示すことにする。ただしその受容史及び展開史のうち最も重要と考えられる「最盛期」の姿――それは新谷の解釈を少し拡大することになるが――に関しては筆者独自の資料に基づいて考察を加え、新谷の説を補強することにする。

1 日本におけるグリーン思想の受容・展開史概観

新谷は、日本におけるグリーン思想の受容・展開過程を六期にわけて解説する。その六期とは、1導入期(明治二〇年代)、2最盛期(三〇年代)、3改装期(四〇年代)、4衰退期(大正初期)、5再生期(大正末―昭和初期)、6御用学問期(昭和一〇年―終戦)の六つである。

導入期のグリーン研究には、大西祝、西田幾多郎といった形而上学的関心を併せ持った形での研究が見られるものの、大勢的に見て導入期のグリーン受容は、民権論者が依拠したJ. S. ミルの思想、特にその『自由論』に対抗するためであった。そしてそこには、「在野」の民権論者の依拠するミル対「官学」としてのグリーン思想という構図が必然的に現われることになる。すなわち「Greenの学説の導入の社会的意義は、明治政府の要路者の待望する御用思想の出現・提供ということになる」(新谷114)のである。日本にグリーン思想を初めて導入した人物といわれ、その後もグリーン思想の普及の中心人物の一人であった中島力造は、グリーン思想を、「スペンサー、ミルなどの快楽説と比較して、其説くところ深遠であり且つ穏健であるのみならず或点に於ては我邦在来の倫理説と一致して居る」(3)と述懐、評価しているが、この「深遠であり且つ穏健」という評価は純粋な評価というよりは当時の民権派の抱いた功利主義思想を暗に意識した政治的意図を含むものと解するべきである。

最盛期とは、導入期にみられたグリーン思想の官学的位置づけが徹底され、明治思想界にグリーン流の「自我実現主義」時代が現出したことを指す。この時期、グリーン思想は思想界のみならず教育界においても流行思想の位置を占め、和辻哲郎も彼が中学で初めて触れた倫理学がまさにグリーン流の自我実現説であったことを告白している(4)。しかし続けて和辻が「しかもそれが子供の時以来幾度となく聞かせられて来た教育勅語の教へと、どこか抵触するだらうというやうなことは、全然問題にならなかった」(5)と述べることは、グリーン流の自我実現説のその後の運命を暗示しているようである。自我実現説は、その後、政府のナショナリズム的政策と衝突・妥協を繰り返しつつ進展してゆくことになるからである。その点から振り返ればこの時期の自我実現説の流行は、そのような衝突、かけ離れがいまだ十分に認識されておらず、国家からの介入が比較的緩やかであったために現出しえたものといえる。

改装期は逆に国家からの統制、介入が顕著になり、その圧力のもとでグリーン思想が展開されざるを得なくなった時期に属する。その最顕著な例は「自我実現」にかわって「人格実現」の用語が使われるようになったことである。「自我」から「人格」への概念変更は、新谷によれば、単なる用語変更以上の意味を有する。すなわち、この時期井上哲次郎による国民道徳論が提唱され、井上が「忠」の概念を広義に取り、それに個人道徳・家族道徳・対人道徳・人類道徳などが包摂されると主張するのに対抗して、同様にそれらを包摂する「忠」ならざる概念として「人格」が宛てられたと新谷は解釈する(新谷117)。つまりこの時期においては、グリーン思想はナショナリズムに対抗するための思想的基盤として位置づけられることとなったのである(6)

衰退期に関しては論ずべきめぼしい材料は見当たらない。しかし注目すべきは、グリーンの思想は衰退期を経て消滅の運命をたどったのではなく、もう一度光を取り戻す再生期が準備されたことである。大正末期から昭和初期にかけてのグリーン復興に関しては、河合栄治郎という一個人の登場が大きく作用しているが、河合を登場せしめるに至った背景的事情を考慮することも等しく重要である。当時日本は第一次大戦後の経済恐慌とそれに伴う労働運動が隆盛を見せ、グリーンが活躍した19世紀末の英国と類似した社会状況が出現していた。ただし、日本が英国と異なるのは、そのような労働争議に対して政府が治安維持法などを武器に徹底した弾圧を加えようとした点である。このような状況下で河合はグリーン思想、特に彼の自由主義を国家統制に対抗する理論的根拠として提示する。河合の論文「大学学園に於ける自由主義の使命を思う」を新谷は次のように要約紹介している。「真理の出現には自由がなければならない。自由こそ真理の出現の不可欠の条件である。社会や国家には善・悪を決定する絶対の標準はない。国民の内面生活に対して、国家が権力的強制を加えることは、人格の成長を害するものである。国家が市民に求めてよいことは、市民たちが人格者としての自己を実現することであり、このことがまた国家存在の理由であり、国家の倫理的目的である」(新谷121)。つまりこの論文において河合は国家権力による思想的統制、学問の自由の原則を侵害する立法措置の不当を指摘し、国家の倫理的目的はそのような介入、統制にあるのではなく、むしろ個々人の自由の保障にあり、各個人の自発的なる人格的成長の扶助にあることを主張したのである。つまり、再生期におけるグリーン思想への関心は必ずしも純粋なアカデミックな関心から再生されたのではない。権力に対する抵抗の思想的よりどころとして、多分に社会的役割を担わされて再認識されるようになったのである。

しかしながら、国家による介入、統制に対抗する思想的根拠としてその価値を再認識されるに至ったグリーンの自由主義もついには時局に逆らいえず、妥協の道を迫られることになる。しかしその際にもグリーンの思想には特別な役割が期待されることになった。それはマルクス主義に対抗するための思想的根拠としての役割である。そもそもグリーンとマルクスは登場時期と場所をほぼ共有する同時代人であるが、両者の間にはまったくといっていいほど交流点を見いだすことはできない。グリーンの理想主義は彼に先行する功利主義、経験主義を批判対象にしているのであって、同時代のマルクス主義に批判の鉾先が向けられることはなかった。それにもかかわらず、あるいはそのような事情を無視して、マルクス主義に対抗する倫理学説としてグリーンの思想が採用されたのは、「「マルキシズムに十分対抗し得る大規模な思想体系」の一翼を担うものとして、Greenの思想が取り敢えず間に合うものの一つであると左翼陣営から公認された」ためであり、「Greenの思想的基調が理想主義――観急〔ママ 念の誤植か?〕論であったところから、場当たり的に当局者が選んだまで」であった(新谷123)。したがってそこにはグリーンを真面目に学的対象として扱おうとする姿勢はもはや失われており、学的研究対象としてのグリーン思想の命脈は事実上尽きていたといわざるを得ない。そして、1938年に河合が東京大学から教職追放の処分を受けるに至って日本におけるグリーン研究はついに終息を迎えることとなり、倫理学の古典の一つとして取り扱われる今日の姿に落ち着くこととなったのである。(カント、ヘーゲルは別格として、グリーンは明治初期から終戦にかけて一貫して思想界において取り上げ続けられた希有の思想家であり、近代日本思想史を研究するうえでグリーン研究の占める位置は極めて大きいといえる)

2 初期西田哲学とグリーン

日本におけるグリーン思想の受容・展開史の概略は以上の通りであり、それらの記述からも既に明らかなことではあるが、冒頭に掲示した問題、すなわち、公共性と自由主義との調和的統合というグリーンの思想的課題、およびグリーンの思想家としての実像は日本において正しく伝わり、応用されたといえるのかという問題に関しては、残念ながら「否」という言葉をもって答えざるを得ない。グリーンの思想は、日本においては常にグリーン自身とは異なった事情・意図から需要が試みられ、むしろそれらを付会する目的で独自に展開されていった。

ところで、新谷のいう「最盛期」に関してはそのような付会とは無関係に、純粋に学的対象としてグリーンが扱われた可能性が残るのではないかという疑問が生じる余地があるように考えられるが、この時期のグリーン受容の実像をつぶさに眺めれば、「最盛期」のグリーン研究においてさえ、われわれはそこにおいて意識的、無意識的を問わず研究に不可抗力的な圧力がかけられ、対象が歪められてゆく姿を目にすることができる。実例として、西田幾多郎の例を考察することにしたい。

西田幾多郎がグリーンの研究を開始したのは、明治二七年のことであり、新谷のいう「導入期」に属する。また、西田によるグリーン研究の最初の成果は「グリーン氏倫理学の大意」の名で『教育時論』誌に掲載されたが、それも明治二八年のことであり、「導入期」に属することに変わりはない。しかしながら西田におけるグリーンの思想からの影響は「グリーン氏倫理学の大意」をもって終わりを告げるものではなく、「倫理学草案第一」、「倫理学草案第二」、「純粋経験に関する断章」などを経て『善の研究』へと受け継がれてゆくことになった(7)。そして、グリーンを含む古今東西幾多の思想家と格闘し、自己の思想を拈提することを通じて西田が『善の研究』を準備した時期がちょうど明治三〇年代であることになる。つまり、西田がグリーンと本格的に思想的対決を行った時期はグリーン思想受容の「導入期」ではなく「最盛期」であることになる。

それでは、グリーンの思想は西田においてどのように血肉化されてゆくことになったのであろうか。西田は明治二七年山本良吉に宛てた書簡においてグリーンを次のように講評している。「グリーンの説は元来余が予期せし如き珍しきものには之なき様に存しられ候 自由意志の處は御説の如く小生も甚たつまらぬ様に存し候 唯グリーンか第二編の始にdesireもperceptionの如くself-conscious subjectの働きに由りて生しblind impulseと異なりと云へる處最も大切なる様にて 後は言語上の争の様に御座候 第三編の如きは愈つまらぬ様なり」(8)この書簡は一見すると西田がグリーンに対する失望を率直に表明したように感じられる内容となっているが、そのように額面通り受け取ることには慎重になったほうがよい。というのも、確かにこの書簡に何かを隠蔽するような意図がないことは明らかであるが、その後の西田の思想が依然としてグリーン流の自我実現(人格実現)という傾向を帯びていることを考えあわせるとき、西田がグリーンの思想に失望を感じ、それから離れていったと単純に考えることはできないからである。上記の引用文を注意深く読むとき、読者は西田の失望がグリーンに直接向けられているのではなく、「グリーンの珍しさ」に向けられていることに気づくであろう。つまり、西田はグリーンの思想自体に失望したというよりは、むしろその思想がグリーンに先行する他の思想家(それがカント及びヘーゲルを主として指していることをわれわれは書簡一九に前後する書簡数通から見いだすことができる)と共有する内容を多く含んでおり、ことさらにグリーンに注目する必要性を見いだしえなかったと解釈する必要があると考えられる。そしてそのような見解の中で西田はグリーンのオリジナリティを「desireもperceptionの如くself-conscious subjectの働きに由りて生しblind impulseと異なりと云へる處」に見いだした。

西田がグリーンのオリジナリティとして評価した「第二編の始」はグリーンが意志を論じた箇所であり、その内容は第一章で論じた通りである。つまり、そこにおいては真正のdesireはdesirableという理想的領域に属することが明らかにされ、それにともなってグリーンの理想主義の立場が明示されることとなる。したがって西田はグリーンの理想主義の本質的性格をよく理解していたと考えられる。

また、西田とグリーンは功利主義批判という点でも一致する。西田は功利主義を二点から批判する(9)。批判の第一は、行為の価値を規定する行為の目的を快楽のみに還元することは、行為の規範を定めることを不可能にするというものである。確かに西田が指摘する通り、最大量の快楽追及が伝統的に重んじられてきた各徳目と一致するかは偶然的なことがらに過ぎず、必然的に一致する保障は与えられえないであろう。逆に、両者が一致するように快楽の計算を調整することは、快楽に先行する原理の存在を前提することになり、功利主義の立場自体を否定することにつながることになる。また、快楽の受け取られ方には個人差が見られ、ある人に最大量の快楽をもたらす行為が別の人にも最大量の快楽をもたらすとは限らない。したがってその意味でも快楽に基づいて統一的な規範を設定することは困難であると言わざるを得ない。

西田による批判の第二は、人は快楽を求め苦痛を忌避するという功利主義が依拠する根本原理に向けられて発せられる。すなわち高邁なる理想のためには人は敢えて犠牲的行動も辞さない場合があり、常に利己的快楽を追及するものではないと西田は主張する。そして、利己的快楽の追及も犠牲的行動もともに「先天的本能」によってもたらされるのであり、倫理の規範はこの「先天的本能」を分析することによって明らかにされる必要があるとの主張がなされる。因に「先天的本能」は「善(活動説)」の章においては「意識の内面的要求」、「意志其者の性質」などの用語に言い換えられることとなる。

このように見たとき、西田とグリーンの功利主義批判との間には明確な共通性が存することが看取されるであろう。グリーンにおいては欲求desireと意志willとが同一視され、意志が己自身の法則に従うという仕方で自己実現をし、そのことが欲求全体を支配制約する(desirableがdesiredとして顕現する)という事態が想定されていた。それは西田における、意志其者の性質によって行為の価値が定められ、よくその要求が実現されたときその行為が善として称賛され、これに反した時には悪として非難されるとする立場と合致する。そしてその過程は西田においても「自己の発展完成self-realization」(善180)としてグリーンと共通の用語によって説明がなされることになる。この点においては西田とグリーンは全く一致しているといってよい。

その一方で西田とグリーンの間には大きな相違点も存在する。グリーンにおいては意志による制約性はそのまま公共的社会性と同一視され、全体として人々の営みが公共的な市民社会を実現するものとして考えられていた。類似の考えをわれわれは西田の『善の研究』中にも見いだすことができる(10)。しかしながら西田の場合、意志や自己が本来社会的性質を有するものであるということに関しては主張がなされるが、それがグリーンの場合のような近代社会における自由なる市民社会をただちに想定しているわけではない。西田による意志の社会的性質の考えは、グリーンに比して理論的、抽象的である。

それに伴って注目されるのが、西田における個人性重視の姿勢である。個人性重視の姿勢はグリーンにおいても同様に見られることではあるが、グリーンにおける個人性重視の姿勢(individualism)は、あくまでも近代市民社会の構成要素たる自由で自立的な個人を意味していたのであり、その意味で全体性、社会性をあらかじめ前提された概念であるということができる。これに対して西田の個人性はそのような社会性、公共性を考慮した個人性の追及ではない。確かに西田の個人性概念も全体性、社会性と無関係のものではないが、西田において目指されていたのはどこまでも個に徹するということであり、むしろその個性の追及からおのずと社会性が生まれてくると考えられたのである(善196.)。換言すれば、グリーンにおいては個人性の追及はその前提として社会性、公共性を前提としていたのに対して、西田においては逆に社会性、公共性が個人性を前提としなければならないという逆転の構図になっているのである。

3 違いを生み出しているもの

前節においてわれわれは、西田とグリーンが功利主義批判と自我実現という基本的立場を共有しているにも関わらず、公共的市民社会の理想の実現というグリーンの思想的実践とは異なった姿で西田の思想が具体化された事実を見てきた。そしてそのことは、両者が置かれた背景的事情が異なったことに由来すると考えられる。

第一章において指摘した如く、グリーンが生きた一八世紀後半のイギリス社会は、労働者階級を含めた市民階層の台頭が一方にあり、そしてその一方で恐慌に象徴される不景気が存していた。そのような状況下でグリーンは社会的保護政策と自由主義とをいかに論理的に結合させるかという課題を担わされることとなったのである。

西田が置かれた状況はそれとは全く異なっていた。グリーンが英国において実際に接した市民階層は明治期日本の西田の前には存在せず、不景気は存在したものの、それは経済の成熟の結果としての恐慌が引き起こしたものではなく、むしろ全く経済の未成熟に由来するものであった。つまり、グリーンが実際に英国において対峙した対象は、明治期日本の社会においては現実的な存在ではなく、全く机上の抽象的存在でしかなかった。明治初期の啓蒙主義運動とそれに続く自由民権運動は、伝統的な儒教的世界観、倫理体系の破壊をかなりの度合いで成功させたが、しかしその破壊の後に適用されるべき新たなる規範的世界観、倫理体系を準備するものではなかった。すなわちグリーン思想が導入され、最盛期を迎える明治二〇―三〇年代にあっては、日本は精神的に開拓すべき無限の荒野の状態であるとともに、同時にそれが精神的な空虚として人々の精神を不安定にさせていたのである(11)

つまり西田にあっては、当時の日本のこのような精神的空虚をいかにして埋め、新たに開拓してゆくかという地点から思想を展開してゆく必要があった(12)。そこにおいて要求されたのはまず近代的自我を担う主体としての個人を「創造」することであり、そしてその上でそれをリベラルな近代的市民へと育成してゆくという二重の課題性であった。このような事情から西田の倫理思想においては、まず徹底的に個の確立が叫ばれ、しかる後に個の確立と公共性の追及とが矛盾するものではなく、むしろ公共性を実現する方向でのこの確立こそが本来の姿であることが主張されたと考えられる。繰り返しになるが、それは既に近代的自我が現実に獲得され、社会が既に公共性追及の軌道を歩み始めていたグリーンとは全く状況を異にするものであったのである。

第二節において私は、新谷のいう「最盛期」に関しては外的圧力に起因する付会とは無関係に、純粋に学的対象としてグリーンが扱われた可能性が残るのではないかというコメントを付した。確かに「最盛期」が属する明治三〇年代は日本思想史上外的圧力の極めて弱い希有の時期であったといえる。しかし外的圧力がないことが純粋なる学的研究を生んだわけではなかった。圧力がないこと自体がかえって圧力と転じ、西田にあってはむしろグリーンとは正反対の姿でグリーン流の自我実現説が独自の展開を見せることとなったのである。

第三章 結びにかえて

グリーンの思想的背景及び特徴、そしてその日本受容の姿は以上のように要約することができる。最後に蛇足めいた試みであるが、これらの情報から「対話」に対して何か有意義な教訓を読み取ることを試みてみたい。

指摘できることの第一は、グリーンの思想が全くそのままの形で移植された時期はただの一度もなかったということである。グリーンの思想はその都度の事情と要求によってある部分は拡大され、また別の部分は無視されることによって、あたかもカメレオンのごとくその色付けを改変させられながら戦前の日本倫理思想において一方の勢力であり続けた。そしてそのような改変は、明治三〇年代、「最盛期」の比較的自由な研究が可能であった時期においても無関係ではありえなかったのである。すなわち対象を客観的に理解すること、学説を歪まずに移植すること、それがいかに困難な試みであるかをグリーンの例は示してくれている。少なくともグリーンの例を通じて我々はこのことに自覚的になるべきである。

その裏返しとして第二点として指摘したいのは、ある思想を受容するという試みには必ずそれを受容しようとする受容側の意図・事情がそこに含まれるということである。その意味で受容される思想は受容側の「鏡」なのであり、注意深い仕方でオリジナルな思想と受容後の姿とを比較することで、われわれはそこに隠れている受容側の意図・事情を探り当てることができるということである。対話は相互理解であるとはよくいわれることであるが、そこでいわれる相互理解とは単に相手を理解するということにとどまるべきではない。まず相手を理解したうえで、その他者理解をよく自己理解へと転じえてはじめて相互理解が真の意味で実り多いものとなるということができるであろう。したがってそこには他者と自己とを互いに映しだしあうことのできる共通の地平獲得という意味が含まれていなければならない。

つまりそこにおいては、個人間に見られる考え方の相違は単に個々人の個性の反映であるという以上の意味が担わされることになる。個人間の見解の相違が実は彼等が参与している社会、文化からの反映であり、我々はむしろその差異に注目することによって社会性、文化性の相違に対して目を開かれることになる。考えの相違はその背後にある者を映しだす鏡なのである。たとえば西田によるグリーン批判も、それは西田とグリーンとの間の対決であると同時に、イギリス社会と日本社会との対峙なのであり、しかもそれは抽象的な意味でのイギリス社会対日本社会ではなく、具体的な一九世紀イギリスの市民社会対一九世紀日本の空虚な社会である。そしてそのいずれに対しても我々はグリーンと西田の比較というテーマを入り口に踏み込んでゆけるはずであり、それが可能になるまで徹底して比較の作業を続けなければならない。比較という作業は、グリーンから西田を見る、あるいは西田からグリーンを見るという一方向的な視点を獲得するということにとどまるべきではなく、第一の方向としてグリーンと西田の相違、そしてその背後にあるイギリスと日本との相違という特殊的差異性を明らかにしてゆくことであると同時に、第二の方向として西田「と」グリーンという両者を包括する根源的な地平を開拓することであるといえる。そしてそのような地平を開拓し、われわれ自らがそこにおいて立つとき、われわれは真にグリーンと西田を公平な視点から眺め、比較することが可能となるといえよう。そしてそのような地平獲得の試みは、「対話」という双方向的な交流の事態においてもひとしく重要であると私は考える。

翻っていまわれわれは「対話」をテーマに、これを対象として研究を行っているわけであるが、そこにあっては純粋に「対話とは何か」という問題が追及されると同時に、「なぜ今我々は対話を研究しようとするのか」、「対話を必然的に研究しなければならない現代とはどのような時代なのか」という点にも注目し、あわせて考察を行う必要があると考えられる。月並みな指摘ではあるが、以上の指摘をすることで本発表の結びにかえることにしたい。

  1. 河合は前掲書『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』において、グリーン以前の自由放任主義の根拠を六点に求めている(河合59-60)。第一点は、アダム・スミスの「見えざる神の手」に代表される考えで、神は各人の利己心を手段として自らの意志を実行するので、各人が利己心を追及しても全体的に見れば調和が保たれ破綻は生じないとする考えである。第二点は功利主義に基づく根拠で、各人の利己心を放任することは各人の最大幸福をはかる最捷径であるとする考えである。これら二点は利己心の追及を信頼し、眼前の貧窮を瞬間的と見なし、最終的には利己心の追及を通じて各人の貧窮は克服されるとする説である。
     第三点は、貧窮の事実を正直に承認し、それをやむを得ざるものと甘受する考えである。この立場はマルサスにおいて採用され、「人口論」において人口が幾何級数的に増大するのに対して食物が算術級数的にしか増大しないので、人口の増大に伴って必然的に貧窮が発生するという主張に代表される。第四点は賃金基金説(wage fund theory)と呼ばれるもので、労働者に支払われる賃金の総量は毎年一定の基金として一国に存在するので、この基金自体が増加しない限りは労働者の地位向上(賃金上昇)は分け前の減少と表裏一体であり、したがって労働者は徐々に貧窮になるというものである。第三点と第四点は、全体として貧窮の出現が必然的なものであり、事実上やむを得ないと主張することで、政府政党による社会主義的保護政策の無意味さを主張するものである。
     第五点はダーウィンの進化論によって、生物界の生存競争優勝劣敗の法則を社会に適用しようとするものである。すなわち、貧窮の地位にあるのは劣者であり、それは生存競争において敗北したものであるから、これを保護することはいたずらに劣者の存在を長引かせるものであり、しかもそれは優者の犠牲において成り立っているので人類の将来を考えると望ましいものではないとする立場である。第六点は、労働者の貧窮は労働者自身の自助努力の欠如に由来するから、その改善は労働者自身にゆだねられるべきであり政府が干渉すべき問題ではないとする立場である。第五点にスペンサーの社会進化の立場、第六点にミルの自由論の立場と共通する主張を見ることができるであろう。
     ここに列挙された自由放任主義の根拠はいずれも十全な根拠として採用できるほど確かなものではないが、伝統と慣習をことさらに重んじるイギリス的気質にも補強されて当時のイギリス思想家に幅を利かせていたものである。そしてそのようなあいまいさを克服する形でグリーンの自由思想が登場することになる。
  2. ここに見られるグリーンの欲求desire概念の定義には不明瞭な点が属するといわざるを得ない。つまり、グリーンにあっては、単なる欲望追及としてのdesireと最終的に意志の動機となるdesireとがともに同じ用語で表現されており、そして後者が意志と同一視されるのに対してなぜ前者はそうならないのかという点に関しては明確な説明が加えられてはいない(自己区別的原理の説明がそれにあたると考えられるが、それならばなおさらこの二つの欲求を区別して呼ぶべきであり、desireという同一の用語が使われることには承服しかねる)。ただし、グリーンを擁護すれば、desireという用語はもと功利主義者が使用するところものであり、そしてその意図がすべての行為の目的を快楽へと一元化するという自然主義的意図から選び取られたものである。本文において示した如くグリーンはこのような功利主義の自然主義的性格に関しては一定の評価を与えており、加えてdesirableという根源性から眺めればいずれの欲求もこれから派生したdesiredなものであることには変わりがないという事情からdesireという用語が両者に与えられていると考えられる。
  3. 『グリーン氏倫理学序説』、明治43年、p.330.
  4. 和辻哲郎『日本倫理思想史』下巻 『和辻哲郎全集』第一三巻、1962年、p.449.
  5. ここでいわれる「人格実現」という用語は、再生期の河合栄治郎が使用するものと全く同じ意味で使用されているわけではない。河合は全くリベラルな意味から人格実現の用語を使用するが、中島力造は必ずしもそうではない。中島は人格を実現することを日本人が日本の国威を発揚することと同義と考えている。その意味では中島の場合人格に「日本人」という範型があらかじめ考えられており、中島も井上同様ナショナリズム的な要素を有していたということができる。ただし、井上が国民道徳論において忠孝という儒教的徳目を強要する形で露骨な国粋主義を展開するのに対して、中島の人格実現説は英国人が英国人的気質を発揮するのと同じ意味で日本人が日本人性を発揮するという位置づけであり、そこに国体や教育勅語といったものが介在せざるをえない点でナショナリスティックであるが、井上に対してはるかに穏健的である点を指摘しておきたい。
  6. この点に関しては拙論「西田幾多郎とT. H. グリーン ――自己実現の原理に注目して」『日本の哲学』創刊号、2000年、pp.58-75.を参照いただきたい
  7. 書簡一九 『西田幾多郎全集』第一七巻 p.31.
  8. 『善の研究』第三編第八章「倫理学の諸説 その四」に基づく
  9. たとえば、第三編第十二章「善行為の目的(善の内容)」には次のような記述がある「かく社会的意識なる者があって我々の個人的意識はその一部であるから、我々の要求の大部分は凡て社会的である。もし我々の欲望の中よりその他愛的要素を去ったならば、殆ど何物も残らない位である。我々の生命欲も主なる原因は他愛にあるを以て見ても明である。我々は自己の満足よりもかえって自己の愛する者または自己の属する社会の満足によりて満足されるのである。元来我々の自己の中心は個体の中に限られたる者ではない。母の自己は子の中にあり、忠臣の自己は君主の中にある。自分の人格が偉大となるに従うて、自己の要求が社会的となってくるのである」(善198-9.)
  10. このあたりの問題は明治三〇年代の「煩悶」の問題と密接に関係する。稿を改めて論じることにしたい
  11. 本来ならここで「精神的空虚」について誠実に分析を行い、それと西田の思想的営為との連関を論じるべきであるが、紙幅の都合で割愛することにする。しかし空虚と西田との連関に関しては、初期の小編からその姿をくみ取ることができる。たとえば「現今の宗教について」(明治三四年)には、「今日我国の青年は全く宗教心なしと云ふを得ず、否其過半は寧宗教を求めつゝあることは、嘗て元良博士の調査せられし結果によりても明なり。唯遺憾とする所は、何をもって今人の宗教的要求に応ずべきか、今日の青年は何の宗教に由りて其宗教心を満足し得べきや、余は彼等の飢渇を医すべきパンと水に乏しきを悲しむ」(『西田幾多郎全集』第一三巻、p.81.)と宗教に仮託した形で精神的空虚が語られ、しかもその空虚を癒す材料が一向に与えられないことを嘆いている。そしてその嘆きに対しては、西田はその身を問題の外において達観していたわけではなく、むしろ西田自身が空虚を嘆き悲しんでいる当人であった。西田が猛烈に坐禅に打ち込み、日記に「学問は畢竟lifeの為なり、lifeが第一等の事なり、lifeなき学問は無用なり。急いで書物読むべからず」(明治三五年二月二四日、『西田幾多郎全集』一七巻、p.74.)といった記述が現われることもそれを示唆する。このような形で西田が自らの精神的な空虚に直面し、その解決を模索する時期が明治三〇年代であり、それは単に西田の個人的事情にとどまらない思想的意義を含む事件であると考えられる

京都大学文学研究科21世紀COEプログラム 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「新たな対話的探求の論理の構築」研究会 / 連絡先: dialog-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp