Newsletter vol.15 (2005.8)


  1. 第17回研究会報告
  2. 今後の予定・お知らせ

第17回研究会報告

2005年 6月 30日(木)13:30 〜 17:00 COE研究室にて
杉村 靖彦(宗教学専修 助教授) 「総括1 他者論・多元主義を中心とした現代思想の問題に関わる考察」
氣多 雅子(宗教学専修 教授) 「総括2 宗教間対話と対話のプラクシス」



総括1 他者論・多元主義を中心とした現代思想の問題に関わる考察」

杉村 靖彦(宗教学専修 助教授)

本発表では、当研究班でこれまで行われた発表のうち、他者論・多元主義を中心とした現代思想の問題に関わるものをとり上げて総括を試みた。それを通して、今後班全体でとり組むべきより密度の濃い議論に向けて、叩き台となるべき論点を提供するように努めたつもりである。とり上げた発表は以下の8つである。

  1. 「証言から歴史へ――対話の臨界に立って」(杉村靖彦、2003年2月)
  2. 「対話の中の〈わたし〉」(佐藤啓介、2003年10月)
  3. 「沈黙における対話の可能性」(今村純子、2004年1月)
  4. 「新たな公共性概念の構築に向けて」(今出敏彦、2004年3月)
  5. 「生の自己証言から/への応答――ヨナスの〈責任原理〉は〈対話原理〉となりうるか」(杉村靖彦、2004年5月)
  6. 「コミュニケーションにおける相互人格的承認」(宮原勇、2004年7月)
  7. 「赦し、ほとんど狂気のように――デリダの宗教哲学への一寄与」(川口茂雄、2004年9月)
  8. 「対話などしたくもない人――復讐と赦しから対話を考える」(佐藤啓介、2004年11月)

以上の諸発表は、とり上げる主題とそれへのアプローチにおいてきわめて多様であるが、対話という問題に関わる際の根本態度という面から見れば、注目すべき共通性をもっているように思われる。第一に、どの発表も、従来の意味での対話を不可能にしかねない「法外な」状況、絶対的不均衡とも呼ぶべき状況を視野に入れながら考察を行っている。そのような状況を体現するものとして、「他者」が差し迫った問題になってくるのである。だが、絶対的不均衡の内に立つというのは、他者を絶対視してそこから出発することもまた許されないということである。それゆえ、これらの発表では、多くの場合、従来「私」として捉えられてきた自己定立的自己が解体され、そこで剥ぎ出しになる「私なき私の根底」に触れさせられるという事態が浮き彫りにされることになる。非対称における「対」関係は、もっぱら「私を揺るがす残響」という様相を呈するのである。

この種の考察が、本研究班のテーマである「新たな対話的探求の原理の構築」に対して批判的機能をもつものとなることは容易に想像できる。だが、このような道をとることが、構築の断念をしか意味しないとは私は考えない。むしろそこからは、「構築」された対話的探求の論理にとってはつねに裏側にとどまりつつ、そのことによって当の論理の実質を成しているような何かを引き出しうるのではなかろうか。ただし、そのためには、少なくとも次の二点についてさらに考察を進めることが必要であると思われる。

(1)そもそもなぜ、絶対的不均衡とも呼ぶべき法外な状況を、単なる例外として遇するのではなく、対話をめぐる原理的考察の出発点に置かねばならないのか。おそらくこの問いは、対話が不可能になるところでかえって対話への要求がもっとも切実になる地点を印づけるという意味をもつであろう。そのためには、デリダがグローバルラテン化と表現するような「現代」の特異性と、悪や苦に関する極限的考察とを結びつけて考察するような思索が必要になるはずである。

(2)そのような状況から「対話」なるものを捉え直すことができるとすれば、それはどのような様相を呈することになるであろうか。その場合に明らかなのは、「他者理解を通しての自己理解」といったモデルの手前で、自己と他者の「対」が成立する現場を見てとらねばならないということである。おそらくそれは、他者論が即「私なき私」の自己論であるような境域となるであろう。そこでは、この対関係の媒質となる言語についての理解も、根底から問い直さねばならなくなるはずである。



総括2. 宗教間対話と対話のプラクシス

氣多 雅子 (宗教学教授)

本発表は、これまでの研究会のうち、以下の発表を取り上げ、そこから宗教間対話ならびに対話のプラクシスにまつわる問題をより深く考察したものである。

  1. 「信仰に由来する寛容」(シュベーベル、2003. 5)
  2. 「出会いにおける〈自己発見〉」(高田、2003. 7)
  3. 「弔いのポリティクス」(大越、2003. 12)
  4. 「宗教間対話の歴史的な背景──仏教と基督教に関して──」(レップ、2004. 1)
  5. 「対話論の対話──宗教間対話と公共哲学──」(山梨、2004. 7)

1. 現代世界における「対話」の必要性から──「新たな対話的探求の論理」を構築する必要性とは何であるか。

現代世界における対話の必要性は《シュベーベル発表》によれば、「宗教的-世界観的多元主義」と「グローバル化」によって説明される。この二つの事象は我々の部会のテーマが決定した背景でもある。だが、対話の必要性は直ちに、「対話的探求の論理」を構築する必要性を意味しない。むしろ、現代世界で対話の必要性が語られる場合には、対話に先立って何らかの論理や規範を立てることは一般に退けられると考えてよい。対話の必要性から、どういう仕方で「対話的探求の論理の構築」の必要性が導き出されるのか。あるいは、この「論理」は求められる対話(的探求)に対してどのような性格のものであるのか。それが問われてくるであろう。

なお《シュベーベル発表》によって、「宗教的-世界観的多元主義」と「グローバル化」について確認しておくことは有意義かもしれないので、以下に要約する。

現代の社会状況は、そこにおいてさまざまに異なった宗教的-世界観的な基礎的指針が共存し、競い合って存在しているという「宗教的-世界観的多元主義」と捉えることができる。社会の文化はさまざまに異なった文化の競演によって規定され、社会は異なった共同体の複合体となり、大小さまざまな少数派の出会いの場所という様相を呈している。根本的な価値の指針の一致はもはや前提され得るものではなく、むしろ生活のあらゆる領域で指針についてのそれぞれの問いが新たに提起され、協議されねばならない。

そして、こういう状況によって社会の全構成員は個人的なアイデンティティの問い、さらには自らが属する社会集団のアイデンティティの問いに直面させられている。特に、社会集団のアイデンティティが危機にさらされていることは、問題を深刻化している。

そこで二つの事柄の遂行が求められている。即ち、他者との出会いを自分自身のアイデンティティへの脅威として恐れる必要のないアイデンティティの形成と、他者を他者として尊敬する寛容の教育とである。そして、寛容の前提条件であり、またその最も重要な遂行形態であるのが、対話である。

グローバル化とは、電子工学的伝達体系による地球全体の通信網化と、それによって可能となった地球規模での経済的・政治的相互作用を指す。電子的通信手段によってこの地球のあらゆる場所が潜在的に通信的同時性の状況となった。それにより地球を一つの統一的な市場にする経済的営為の可能性が開かれ、生産と消費が世界規模の尺度で整備されつつある。このグローバル化は祝福と呪いの両面をもって立ち現れている。非西側諸国にとってそれは西側諸国の経済的侵攻と見なされ、同時に、西方文化の諸象徴を非西方文化の文化的基軸通貨として受け取ることを強制される。そこで、非西側諸国においてグローバル化への批判と抗議が起こっているが、この批判もグローバルであることを免れない。

このグローバル化の圧力のもとで、世俗主義と原理主義との新たな強烈な弁証法が刻み出された。対話は、このような状況を乗り越えるものとして必要とされている。

2. 「対話」が内包する相対性──相対主義と自己相対化

「宗教間対話」に対してこれまで伝統的諸宗教は必ずしも積極的ではなかったが、それは、信仰の立場が面する絶対性と対話という相対的な場とが相容れないと考えられたからである。《シュベーベル発表》は「寛容ないし対話の要求は、宗教的真理意識の相対化を内に含んでいるように思われ、この相対化は宗教的アイデンティティの弱体化をもたらすように思われる」と述べている。対話がなされる場は世俗的理性の議論の場であり、そこで宗教的立場を論議するということは、それ自体が、宗教的アイデンティティを脅かすものとしばしば受け取られるわけである。

対話の内包するこの相対性は、何が宗教において絶対的性格をもつのか、ということを改めて問いにさらす。《シュベーベル発表》は、宗教の諸制度やその教義体系、その礼拝実践、その位階秩序、その行動規範は相対的であり、神の啓示のみが絶対的であると論じた。この考え方では、対話は信仰の純粋さをさらに徹底させ、信仰のいっそうの深化を要求することになる。しかし、それは、対話の相対性が自己相対化の要求として働き、その要求が真摯に受けとめられた場合である。

「対話」の場の内包する相対性は、極端に言うなら、相対主義として現れる場合と自己相対化の要求として現れる場合とがあるように思われる。(ただし、これは常に別の形の現れ方を呼び起こすような性格のものであろうが。)この相対性がどういう形で現れるかということは、次の問題と深く関係するであろう。

3. 個人の内的な対話か、具体的な他者との対話か。また、個人間の対話、共同体間の対話、文化間ないし宗教間の対話は、対話の性格として区別する必要があるか。

「思考」という自己との対話(《今出発表》)は、まさに自己相対化の働きが動力となる対話だと言うことができよう。他方、具体的な他者との対話の場合、対話の場は一切を相対化する相対主義の支配する空間であり、そこでの相対化は自己自身による自己相対化よりはるかに厳しく徹底した形で自己に襲いかかる。それ故、ここでは自己のアイデンティティが危険になるのであるが、同時に、新たな自己が再生される可能性はここにこそあると言える。その意味では、具体的な他者との対話が対話の原型であって、自己との対話はその模写であると考えるべきであろう。しかしまた、他者との対話が自己のアイデンティティの危機をもたらすということは、具体的な他者との対話は自己自身に送り返される必要があることを示している。他者との対話は決してそれで終わりにはならない。自己相対化はこの具体的な他者との対話が自己に送り返された場面で、一段と成熟すると共に、そこでこそその本来の意義を発揮するものであろう。

また、共同体間の対話は、特定の問題に関して、何らかの設定のもとになされるものであろうから、対話の限定された形態となるであろう。また、これまでの発表では宗教間対話が多く主題的に論じられてきたが、宗教間対話の担い手は誰なのかということが曖昧なままである。つまり、宗教間対話といっても、実際になされるのは、例えばキリスト教信仰を生きる個人と禅を生きる個人との対話である。宗教間対話は個人と個人の対話を前提にしない限り、抽象的な比較に止まるであろう。対話にはやはり「対面」ということが基礎にあるように思われる(ある意味ではそれが問題である)。

この対話相手の多様性の問題自体は、これを中心に論を設ける必要のあるものではないが、対話を論ずる時に常に伏在する問題であると思われる。

4. 「対話」がどうして「探求」になり得るのか。──自己相対化は「探求」においてどういう役割を果たすか。「対話的探求」における対話と探求の関係は如何。

《高田発表》は「宗教間対話」が結局、「対話的探求」にならなければならないことを論じたと言うことができる。それによれば、我々は宗教多元状況のなかでさまざまな他者に遭遇し、他者を「発見」することにおいて自己自身を「発見」する。他宗教が自宗教とは根本的に異なるということが真に理解されたとき、実は相互の理解が成立している、つまり「対話が成立している」。「宗教対話は対立点をめぐっての交渉において、なんらかの妥協点を見出す試みではなく、むしろ、自他の差異に対する根本的な相互承認にほかならない」。この相互承認は、他宗教のみならず、自宗教についても「《新たな》(それまでには自覚されなかったような)理解」が生まれてくる可能性をもたらすものであろう。

「対話」は《高田発表》を参考にすると、差し当たって、《何らかの妥協点を見出し合意を形成することをめざすもの》と《自他の差異に対する根本的な相互承認をめざし、他者および自己について新たな理解を追求するもの》に分けられると言えよう。前者が、現代の応用倫理学が盛んに追究しているように、「合意形成の技術」を洗練させる方向に進むものであるなら、「対話的探求」はむしろ後者の対話を考察する方向に見出されるものであろう。この部会のこれまでの議論から考えて、「新たな対話的探求の論理」はいわゆる「合意形成の論理」とは区別されるように思われる。

そして、前出の自己相対化の作用は、対話を自己「探求」の方法たらしめる有効な一つの働きであろう。ただし、「対話的探求」は「自己探求」に限定されるわけではない。むしろ「対話的探求」は、複数の対話者が対話において相互的もしくは協働的に「探求」を遂行することを思い浮かべさせる。差し当たって、この探求において「探求されるもの」は二つの場合が考えられる。一つは、「探求されるもの」が「自他についての新たな理解」に徹底される場合、つまり、自他の相互性の内に収斂する場合である。もう一つは、探求が協働的に遂行され「探求されるもの」が自他関係の外に向かう場合、つまり対話が探求の協働性の形態である場合である。

5. 「最終的な答えを与えず、相違を守りながら、共生の可能性を探る」という対話の態度。

《レップ発表》はキリスト教や仏教の伝統のなかで古くから行われてきた「論争・討論」を検討して、そこに勝ち負けの原理がある限り、対話が成り立たないことを論じた。レップ氏の規定では、「論争・討論」が勝ち負けの原理を乗り越えて、最終的な答えを与えず、相違を守りながら、共生の可能性を探ることによって「対話」に至るということであったように思う。

この「最終的な答えを与えず、相違を守りながら、共生の可能性を探る」という態度は宗教間対話という課題に制約されてはいるものの、「対話的探求の論理」を考察する際に一つの手掛りを与えるものであろう。ただし、この態度は自己のアイデンティティが確立されていることを前提とするように思われる。

6. 対話が可能になる社会的条件の問題は我々にとって副次的であること。対話が成り立つ条件と対話的探求が成り立つ条件。

《シュベーベル発表》は、寛容の問題が根本的には個人の問題ではなく、社会的共同体の問題であることを明らかにした。それによれば、寛容はもっぱら個々人の良心の自由に基礎づけられた個人の徳ではなく、個人的寛容は社会的共同体を前提している。寛容をなしうる個人的アイデンティティを共同体の中で形成するための条件は、堅固にされた社会的アイデンティティによって保証され得るような社会的共同体─それはアイデンティティの基礎をコミュニケーションの実践の中で想起するような共同体である─を前提としている。その点で、宗教共同体や教会がアイデンティティ育成の制度として、市民社会のなかで重要な役割を果たす。しかし、信仰共同体がこのような役割を果たし得るためには、国家の法秩序による諸制度に支えられる必要がある。その際に注意すべきであるのは、国家の法秩序は、国家の法秩序に違反した非寛容の諸形式に罰則を課す概括的条件を定めることしかできないという点である。国家は行為の指針となる特定の基本的信念を義務づけることはできないのであって、寛容の実践は市民社会の諸制度に委ねられなければならないのである。

これは「対話が可能になる社会的条件は何か」という問題であると解される。このような問題は「対話的探求の論理の構築」を問う我々の論点からすれば、副次的な位置づけとなろう。我々にとって問題なのは「対話的探求が成り立つ条件」であり、「対話的探求の論理」とはまさにそれに当たるからである。「対話的探求の論理の構築」をめざすという我々の視座が現代の多くの対話論の志向するところと比べて、かなり原理的なものとなることを確認しておく必要があろう。

7. 対話に現実的諸問題に関する「効力」を求めるか否か、もし求めるとしたら如何なる意味の「効力」であるか。

《山梨発表》は、これまで行われてきた宗教間対話が宗教的問題に限定され、公共的空間と結びついていないことを指摘する。そこで、宗教間対話がこの自己完結性、閉塞性を打破して、公共世界に開かれたものになること、言い換えれば、宗教および宗教間対話が平和問題をはじめとして、環境倫理・生命倫理などの人類が直面する諸問題に対して具体的に貢献するようになることが、主張された。

この発表で特徴的であるのは、対話に現実的効力を求める態度である。しかもこの効力は「宗教の内部」ではなく、公共世界において発揮されるものを意味する。だが、公共世界では一般に対話が合意形成をもたらすことの方が重要視され、対話における「探求」は後回しにされる傾向がある。特に、現実的効力が問われる場合は、対話が何らかの具体的成果をもたらすことが求められる。「対立点をめぐっての交渉において、なんらかの妥協点を見出す試みではなく、むしろ、自他の差異に対する根本的承認にほかならない」(《高田発表》)ような宗教間対話は、山梨氏の立場からは批判されることになる。「なんらかの妥協点」を見出さなければ公共的空間において効力のある提言ができないからである。その限りでは、「探求」を主題とする我々は山梨氏が主張するような「効力」の要求を留保しなければならないように見える。

とはいえ、「新たな対話的探求の論理の構築」という課題も、現実的な諸問題を前にして哲学が何を為し得るかという問題意識から発したものである。「新たな対話的探求の論理」も現実的に「有効な」ものでなければならない。そこから考えると、「効力」ということを「公共世界における効力」と捉えることに問題があるように思われる。山梨氏の発表には、宗教および宗教間対話の空間は、より広い公共的空間に対して、狭い閉じた空間をなすというニュアンスがあるように思われるが、この捉え方は問題を含んでいる。宗教は公共的空間に対してどのような役割を果たすかが、問われるべきであろう。それに加えて、「論理の構築」という哲学的課題の「効力」「有効性」ということを根本的に考えてみる必要があろう。

以上、これまでの宗教間対話と対話のプラクシスに関係した発表を概観した上で、それらの発表を「新たな対話的探求の論理の構築」というテーマへと収斂させつつ、問題点を掘り起こすことを試みた。したがってこの考察は、もともと多様な様相をもつ「対話」を「論理の構築」という我々の課題に向けて絞り込むという傾きをもつことになった。これは必要不可欠な作業であると思われるが、同時に、対話の多様な様相が回復される方向も必要となると思われる。

なお、ここで対話のモデルとなったのは宗教間対話である。あるいは、宗教的次元における対話であると言ってもよい。それは、自己と他者がそれぞれ成り立つか否かが賭けられる最も深層の対話であり、対話がもはや不可能になる地点というものを絶えず突きつけられずにはいない。だが、おそらくまったく別の意味で、あるいはまったく逆の意味で、対話が不可能になる地点というものがある。対話が不可能になるというなり方も、一様ではなかろう。これもまた、多様な角度からの考察が必要な所以である。



今後の予定・お知らせ

第19回研究会のお知らせ(予定)

2005年10月6日(木)13:30 〜 17:00 COE研究室(京大文学部東館4階北東角)
*内容は未定です

京都大学文学研究科21世紀COEプログラム 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「新たな対話的探求の論理の構築」研究会 / 連絡先: dialog-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp