ニューズレター第5号

 夏もあと少しで過ぎ去ろうとしてます。皆様如何お過ごしでしょうか。

 今回のニューズレター5号は、来る9月下旬に催される国際シンポジウムや、これまでの研究会の彙報を内容としています。今まで寄せられたご要望に応え、今号より彙報のスペースを若干増やしました。これからもいろいろご意見を寄せて頂ければ幸いです。


■ 第3回研究会彙報

 平成15年度初となる第3回研究会は、2003年5月30日(金曜)の午後6時から京都大学文学部陳列館1階会議室で行われ、藤井讓治氏より「江戸前期の日本図について」というタイトルで、ご報告を頂きました。以下はその要旨です。

 報告では、従来「慶長日本図」とされてきた日本図が、川村博忠氏が明らかにされたごとく寛永年間(1623−43)に2度作成されたものであることを確認したうえで、正保日本図について以下の点を明らかにした。

@、従来の研究では、正保日本図は慶安4年(1651)に北条正房によって作成され献上されたものであるとされてきたが、この時点で国絵図作成を管掌していたのは大目付井上政重であり新番頭の職にあった北条正房が関与しうる余地はなく、根拠とされてきた『寛政重修諸家譜』の記事はなんらかの誤伝であるとした。また、慶安4年段階には日本図作成の基礎となる各国の絵図はすべてが完成してはいず、少なくとも慶安4年に正保日本図が作成されたとすることは困難であるとした。

A、従来、正保日本図としては、「正保日本図」(国立歴史民俗博物館蔵、以後〔歴博図〕と呼ぶ)と「皇圀道度図」(大阪府立中之島図書館蔵)の二つが知られていたが、今回、これまで紹介されたことのなかった国立史料館所蔵の「日本総図」を取り上げ、この図が正保国絵図を元に作成された日本図であることを明らかにした。またこの絵図は、全体としては〔歴博図〕や「皇圀道度図」と図形においては大きな差異はないが、〔歴博図〕等に比べ情報量は少ない。しかし、城郭・陣屋の所在地については〔歴博図〕に比して遙かに詳細であり、「朝鮮国」・「釜山海」「八丈島」などが描かれているなど、〔歴博図〕を元にして描くことのできない情報が含まれている。一方〔歴博図〕等における一里塚記載や交通網にかかわる記載は本図では極めて簡略であり、本図を元に〔歴博図〕が作成された可能性はない。こうした諸点を確認したうえで、本図は、明暦4年(1658)に伊予吉田に置かれた陣屋が記載されていることなどから、この頃に作成されたものではないかとした。また〔歴博図〕「皇圀道度図」は、一里塚を始め陸上交通路が極めて詳細であることから、寛文9年(1669)に大名へ命じた「道度」調査に基づき、北条正房(当時は大目付)が作成した図であると推定した。

 日本史・東洋史・地理・中国文学専攻の方々のご参加を頂き、討論や意見交換が行われました(参加者23名)。

 

■ 第4回研究会彙報

  第4回研究会は、2003年7月19日(土曜)の午後1時から京都大学総合博物館及び文学部陳列館1階会議室で行われました。最初に勧修寺家文書(総合博物館所蔵)の「広輿図」を見学した後、宮紀子氏より「『混一疆理歴代国都之図』への道−14世紀四明地方の『知』の行方−」というタイトルで、ご報告を頂きました。その要旨を掲載します。

  「混一疆理歴代国都之図」(以下、〔権近図〕と略す)のもととなった二枚の中国地図のうち、大元ウルス治下の至正20年(1360)に作成された清濬の「混一疆理図」およびそれに改訂を加えた厳節の地図について比較的詳細な記録をのこす『水東日記』は、じゅうらい康煕19年(1680)刊本が最良のテキストとして利用され、標点本もこれを底本としていた。それ故に、もっとも古い常熟徐氏刻38巻本の姿をほぼ忠実に伝える大倉集古館所蔵の明建安重刻38巻本、徐氏の版木を買い取って2巻を補った旧北平図書館所蔵の40巻本に、じっさいに至正(1341−67)末年の状況を極めてよく伝えるいわゆるチャイナ・プロパーの地図「広輪疆里図」(=「混一疆理図」。康煕本のタイトル「広輿疆理図」は正しくない)1葉が掲載されていることは、まったく知られていなかった(じつは、四庫全書の38巻本にも不正確ながら写しが収録されている)。標点本等では省略されてしまっているこの清濬の地図は、李澤民の「声教広被図」(『広輿図』収録の「東南海夷総図」・「西南海夷総図」にその姿の南半分を示す)とともに、朝鮮・日本の形もそれなりに捉えており、海、港への目線が強烈に感じられる。天理図書館の「大明国図」・本妙寺の「大明国地図」と一致する部分もあり、後に「皇明輿地之図」(内閣文庫蔵)の原本ともなった。

  更にここ数年に陸続として公開された大量の中国、朝鮮資料によって、至正年間から明の洪武年間(1368−98)にかけての清濬の経歴、人脈をかなり克明に辿ることが可能になった。その結果、清濬が仏典のみならず、詩文にも巧みで幅広い学問を身につけていたこと、地図の作成に劉仁本を中心とする四明地方(慶元路、現在の寧波一帯)の文化サロンが大きく与ったこと、この人脈・文化がそのまま朱元璋にとりこまれたこと、永楽帝のブレインであった姚広孝が清濬の法門の従兄弟にあたるうえ、清濬本人も、明の皇室と最も深い関係にあり国際外交の舞台となった天界寺、霊谷寺において覚義、住持をつとめるなど重要な役割を果たしたこと、清濬図と明朝廷、高麗・朝鮮王朝がきわめて近い距離にあったことが判明した。

  いっぽう、李澤民の「声教広被図」については、烏斯道の『春草斎文集』から、それが李汝霖の「声教被化図」と同一で、汝霖は澤民の字である可能性が高いこと、1319年頃成立、1330年頃改訂と考えられてきた李澤民の地図がじつは清濬の地図よりわずかに遅れること、李澤民のもとづいたチャイナ・プロパーの地図・地誌のデータが1319年、1330年頃のもの―たとえば1320年成立の朱思本「輿地図」であったこと、清濬図・李澤民図ともに方格地図であったこと、烏斯道が〔権近図〕以前にすでに清濬と李澤民の地図を用いた「輿地図」を作成し、版木に刻していたこと、〔権近図〕もとうじ入手できる最良の地図を選んでいたことが明らかになった。烏斯道は清濬と同じ四明の人であり、活躍した時期、交友関係も完全に重なっている。

  四明は、中国、高麗、日本を結ぶ貿易、軍事の港であり、同時に地図、書物等の「モノ」を輸出し、外交使節、留学僧、王侯貴族、文人等「人」が激しく出入りする「知」の港でもあった。四明を通じて中国・朝鮮・日本の三国は同じ教養、文化を共有した。そして、明の嘉靖年間(1522−66)、地図を作成する楊子器もまたこの「知」の港に生まれ、しかも烏斯道の顕彰を行ったのである。

  とうじ、四明の文人たちは、比較的容易にムスリム将来の西方地図を見ることができた。同時に『歴代地理指掌図』、『禹貢山川地理図』、『水経註』、「禹迹図」拓本等の伝統的な地図、地理書を必須の教養として身につけていたほか、この時代は読書の際に随時参照できるよう、経史子集のジャンルを問わず巻頭に年表、系図等を付す纂図本が流行しており、日常的に「六合混一図」や「歴代帝王国都疆理総図」などの歴史地図を目にしていた。この纂図の地図は、類書の『事林広記』、『翰墨全書』収録の地図・地理情報とも深い関係をもつ。モンゴルの江南接収後、四明の代表的な学者、文人である胡三省や袁桷等は、最新の地理情報を陳元■(セイ)の『博聞録』十巻から得ていた。『博聞録』の挿図・記事の多くは、最も古い至元刊本の姿を留めるとされる和刻本『事林広記』と一致し、官撰の『農桑輯要』にも引用される。その他、『事林広記』の成立ともかかわる『書林広記』、『群書一覧』、『啓箚天章』、『啓箚雲錦』等もあわせて比較検討すると、大徳(1297−1307)初年頃まで、類書の世界では、華北は金朝の行政区画に上都路を付け加えただけ、江南は南宋の祝穆『方輿勝覧』の行政区画にしたがうというものが多く、そのご、『啓箚青銭』、『翰墨全書』(『混一方輿勝覧』)、『事林広記』(至順、後至元刊本)に至って実際に即した地理情報を得られるようになったことがわかる。なかでも『輿地要覧』とともに『大元大一統志』の簡略版とされる『混一方輿勝覧』は、単行本としても流通した。しかし、これらの知識は、朱思本の「輿地図」(拓本、書籍、軸物)と同様、モンゴル朝廷にとっては、公開して全くさしつかえのないレヴェルのものであった。とうじ最高の地図は兵部が秘匿・管理し、のち大都陥落の際にはモンゴル朝廷とともに北へ持ち出され、ついに明朝廷の手に渡ることはなかった。

  金士衡、権近等、朝鮮王朝の重臣たちは、『事林広記』や朱思本、清濬、李澤民等の地図の真の位置づけを知っていたかどうかは別として、その時点で入手し得る最良最新の朝鮮図、中国図、日本図を合体させる行為に、唯一無二の王の権力を示す意味を込めた。のちに、改訂版が次々と出されていくのは、そのためである。烏斯道の「輿地図」との違いもそこにある。

  なお、〔権近図〕の改訂版のひとつであり、熊本本妙寺(加藤清正の菩提寺)所蔵の「大明国地図」は、これまで、さしたる根拠もなく豊臣秀吉が朝鮮出兵のさいに清正に持たせたものと推定されてきた。しかし、『宣宗大王実録』によれば、清正の軍に降り娘二人を差し出したことで知られる韓克誠の子の韓格が抄写して朝鮮地図とセットで献上したという「中国地図」そのものである可能性が(実際に紙質を確認する必要があるが)極めて高いことを付言しておく。

  日本史・東洋史・地理・日本文学・中国文学・中国哲学専攻の方々のご参加を頂き、討論が行われました(参加者15名)。


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