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NEWSLETTER No.4

2003/05/30

――坤の会――

 文学部のなかではどの専攻もそうなのでしょうが、とりわけ文学を直接の対象と
する場合、「作品を読む」ことが何よりも大きな意味をもっていることは、いまさら言う
までもありません。文字の羅列としてそこにあるテキストを、どれだけ正確に、いかに
豊かに読むか、そこに文学研究のむずかしさと楽しさがあるように思われます。
 複数の人と一緒に読むのは、一人でテキストに向かい合う時とはまた別の「読む」
楽しみを味わう場でもあります。一人で読んでいた時は気付かなかったようなこと
がふと頭に浮かんだりするのは、ほかの人の意見に触発されたためのみならず、そ
こにみなぎっている緊張感におのずと活性化されるからでしょう。演習という授業の
なかで、つまりは仕事として、そうした会読の歓びを味わえることは、思えば恵まれた
職業と言わねばなりません。(仕事がそれだけならば、何も言うことはないのですが……)
 わたしたちの研究会では、研究発表を中心とする「乾の会」とは別に「坤の会」を設
 て、会読を続けています。昨年11月から読んでいるのは、「永正七年正月二日実
隆公条両吟和漢百韻」というものです。西暦でいえば1510年、三条西実隆(さんじょ
うにし・さねたか)とその子の公条(きんえだ)とが父子唱和した百句の聯句。「和漢聯
句」とは実に奇妙な文学様式があったものです。中国の聯句、日本の連歌、それが
合体して、日本語の連歌が数句続いたと思うと突然、中国語の聯句にすっとすり替
わってしまう。それもまた数句で日本語の歌に変わる。まったく性格の異なる二種の
言語を交互に用いながら一つの作品を織り上げるという、こんなものが世界中のほ
かの文化圏にあるのでしょうか。木に竹を接ぎ、竹に木を接いで続いていくこの聯句
は、この研究会の「極東地域における文化交流」という題目に、ふさわしいといえば
これほどふさわしいものもないでしょう。
 作品がそんなものですから、会読は国文・中文二つの研究室のメンバーによって
読み進めています。国文と中文のそれぞれ一人ずつがコンビになって十数句のまと
まりを担当し、用意されたレジュメをめぐって全員で討議する、その議論がなんとも楽
しい。中国文学研究室のわたしにとっては、国文学の人たちと一緒に読むという試み
は今までなかったことで、それだけでも新鮮な体験です。会読の過程で国文と中文と
の間の微妙な姿勢の違いというものをおぼろげに覚えることがありますが、その差
異がどんなものか、おいおいはっきりしていけば、そこからも互いに裨益するものが
得られそうです。
 このような文体を読み解いていくには多少の経験など役に立ちませんから、若手も
中年、初老?もまったく対等の立場でやりあう、その活気が坤の会を盛り上げていま
す。解しがたい一句をめぐって次から次へと新たな意見が出て、解釈がどんどん深
まっていった最後に至って、そもそも原文の字の判読が間違っていたことがわかり、
句の意味がいともあっさり決まってしまったという一幕もありました。紆余曲折を重ね
るこの過程にも意味があるのでしょう。中国文学の立場で逢着する困難の一つは、
中国古典詩の表現としては不都合な箇所に出会った時、それを和臭として一蹴する
こともできず、その言い方のなかに作者の意図を推し量らねばならないもどかしさが
常にのこってしまうことです。わたしたちのそんな戸惑いを気にも懸けず、実隆・公条
父子はこの贅沢な遊びを悠々と続けています。訳注の公刊を目指して原稿を整理し
ながら続けていますが、成果よりも今は会読の楽しさを味わう貴重な時間になってい
ます。(研究会代表 川合康三)

これまでの活動報告
○2003/04/28
第六回 「坤の会」
橋本正俊、好川聡
「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」輪読 5回目
○2003/05/21
第四回 「乾の会」
柴谷方良教授(ライス大学言語学科)
講演:「言語の形式と機能:東アジア言語と他との比較から」
○2003/05/26
第七回 「坤の会」
橋本正俊、好川聡
「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」輪読6回目

今後の活動予定 今後の研究会・輪読会の日程は以下の通りです。
○2003/06/30 午後3時〜
第八回 「坤の会」
担当:橋本正俊、好川聡
内容:「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」輪読 7回目


第四回「乾の会」研究発表要旨はこちらをご覧下さい。


※初学期の公条

 現在「坤の会」で輪読している「永正七年正月二日実隆公条両吟和漢百韻」は、
中世和学の大成者である三条西実隆とその息子である公条が、二人で催した和漢
聯句である。興行当時、実隆は五十六歳、公条は二十四歳。公条は実隆の次男で
あったが、三条西家の家督を継いだ。実隆はこの息子の教育に心を砕いていたらし
い。
 室町時代、堂上では月次で和漢聯句の御会が行われており、実隆はその月次御
会の中心メンバーであった。公条はというと、『実隆公記』の記事によると、初めて月
次和漢聯句御会に参会したのは永正元(1504)年の八月であるようだ(少なくとも5月
までは参加せず。6・7月の月次御会の記事が『実隆公記』にないため、6・7月につ
いては不明)。その二ヶ月後、十月の御会では、公条が発句を詠んでいる。この折の
発句も実隆は『実隆公記』に書き留めており、「色みえぬ松やいく世のはつ時雨」であ
った。また、翌年二月の御会では、公条が執筆に任じられている。公条は経験がま
だ浅いことを理由に固辞したものの、勅定により結局務めることになった。実隆はは
らはらしながら見守っていたのであろうか、「初度の儀、無為無事、尤も自愛なり」と、
公条が無事務め終えたことに胸を撫で下ろしている。ちなみに、この会の発句は実
隆である。その後、公条はたびたび月次御会の執筆を務めることになる。
 こうして堂上連歌壇・歌壇において活躍し始めた公条を、実隆は期待と不安をもっ
て見守っていたことであろう。実隆が聯句の指導者と見なされていたことは、文章博
士であった高辻(菅原)章長から聯句に合点を所望され、「不相応と雖も」としながら
も結局合点を付けていることからも分かる。公条の学習にも目配りを届かせていたら
しく、例えば永正四(1506)年三月十八日の記事には、『文選』の講釈に公条が「目の
所労」のために欠席したことについて、実隆は「無念なり」と記している。ちなみに公
条は、目に持病があったのか、もしくは目が疲れやすい体質であったのか、『実隆公
記』には公条の「目の所労」が諸処に記されている。永正七年正月二日の両吟和漢
百韻以外にも、実隆と公条は何度も両吟で和漢聯句を詠んでいる。永正四年六月
二十五日、十月二十五日、それぞれ永正七年正月二日のものと同様に、三日から
四日をかけて詠み終えている。月次御会を初めとして、通常の和漢聯句の会では、
百韻を詠むのに一日も掛からない。早くて夕方、遅くても夜には詠み終わり御所を退
出している。それを考えると、たとえ両吟であるとはいえ、百韻を詠むのに三日・四日
は長い。やはり公条の教育のために、実隆がゆっくりと時間を掛けて興行したと考え
られる。後に、公条自身が実隆の後を継いで、歌壇・連歌壇の指導者となってゆくが、
初学期の公条に対する実隆の薫陶が窺われる。(小山順子記)



後記
 ニューズレター第4号をお届けいたします。
 今回の「乾の会」では初めて言語学の講演をしていただき、学内外から
多くの来聴者がありました。
 今後も皆さまのご参加をお待ちしております。(中島)

京都大学大学院文学研究科21世紀COEプログラム
「極東地域における文化交流」
kanwa-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp