21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
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■第12回研究会レジュメ

《報告2》

 2005年5月9日(土)
於:京都大学文学部新館

教養における規範と「寛容性」

田中 紀行


J はじめに

 本報告では、現代先進社会における正統的「教養」の内容規定にかかわる規範の変容ないしゆらぎ―それがただちに「寛容性」を意味するものとはいえないにせよ―について、現状とこれまでの研究状況を次の2つの角度から検討したい。
 1つは、文化の消費と階層構造の再生産に関する最近の研究動向である。従来、ブルデューの文化的再生産論に見られるように、文化消費のパターンによって表される個人のライフスタイルとその出身階層の間に一定の対応関係が存在し、文化のジャンル間に存在する正統性のヒエラルヒーが階層構造の再生産を媒介する何らかの機能を果たしていることが想定されてきた。その際、正統性の高い文化(ハイカルチャー)はその享受のために特殊な文化資本を要する排他性の高いものであり、支配的階層はそれを自らの象徴的境界維持のために利用しているとされる。しかし近年はこうした文化のヒエラルヒーと階層構造の対応関係は流動化してきていることがさまざまな経験的研究から明らかになりつつある。そこには現代先進社会における文化的平準化と「教養」(ないしハイカルチャーの消費)の社会的意味の変化とともにエリートの文化戦略の変容(排他性から「寛容性」へ)が見出される。
もう1つはその正統的文化の具体的内容の定義に関する問題である。高等教育の大衆化と「教養主義の没落」(竹内、2003)やマルチカルチュラリズム・文化相対主義の浸透に伴って、かつては比較的明確であり社会的に共通の了解があったハイカルチャーと大衆文化の境界や「教養」の具体的指示内容(教養カノン)の不明確化と相対化が進む一方、教養の再定義への社会的需要は持続しており、これが「教養」の危機という形で語られている。

K ブルデューの文化資本論

 議論の出発点となるのはP. ブルデューが主著『ディスタンクシオン』(Bourdieu, 1979)などで展開している文化資本(capital culturel)論である。周知のようにそこでは「社会空間」(当該社会における社会的位置の布置)が各成員の保有する「資本」の量と構造(経済資本/文化資本の比率)を基準として構成され、この社会的位置空間とライフスタイル空間(文化消費パターンの布置)との間に相同性が見出される(同書では1950?60年代にフランスで行われた社会調査のデータをもとにそれが実証されている)。その際、各階級に対応した形で形成される「ハビトゥス」(性向の体系)が階層構造の再生産に寄与するものとして想定されている。さらに、知識人や芸術家といった文化エリートを含む「支配階級」が「正統的文化」の定義に関わるとともに、そこに排他的にアクセスすることによって他の階級から自らを区別する(「象徴的暴力」)とされる。

L ブルデュー以後の研究動向

 フランスの社会構造をベースにしたブルデュー理論は、フランス以外の社会での同種の実証研究を刺激するとともに、特に1990年代以降、そのフランス的特殊性(社会的地位達成における文化資本の重要性等に関して)や時代的制約(産業社会からポスト産業社会への転換)といった観点から批判を受けている。

(1)G. シュルツェの「体験社会」論

 大規模な社会調査にもとづいてブルデューに代わる文化消費と社会構造の関係についての体系的理論を提示した代表的な試みがG. シュルツェの『体験社会』(Schulze, 1992)である。これは80年代半ばのドイツ社会を基盤として展開されたものであり、現代社会において支配的な行為志向が「外部志向」から「内部(体験)志向」へ変わってきているという前提から、主に「スタイル」・年齢・学歴の3要因によって社会的「ミリュー」が形成されるというモデルを提示している。そこでは出身階層とライフスタイルの間の一義的な対応関係が否定されるとともに、ブルデューにおいて前面に押し出されていた階級間の区別への志向が相対化されている。

(2)R. A. ピーターソンらの「文化的オムニヴォア」論

 近年R. ピーターソンら(Peterson, 1993など)によって提唱されている「文化的雑食性」(cultural omnivore)論は、「文化的排他性仮説」に「文化的オムニヴォア仮説」を対置したものであり、後者によると現代の上流階層において正統的文化(ハイカルチャー)のみならず大衆文化を排除しない幅広い文化消費のパターンが広がりつつある(ただし全面的寛容ではなく、大衆文化の一定の要素は依然排除の対象となる)。これは現代のエリートに求められる政治的寛容性が文化的次元にまで拡大された結果と解釈されている。これはアメリカにおける調査結果にもとづくものだが、日本やドイツにおいてもこの仮説の検証が試みられている(日本のケースについては片岡、2000)。

M 教養カノンの崩壊と再編成

 正統的文化の定義にかかわる規範の拘束力の低下は、上述のような階層的基盤との結びつきの弛緩を背景として、「教養カノン(Bildungskanon)」(文学的カノンを哲学・歴史・音楽・美術など学校教育の対象となる全ての文化領域に拡張したもの)の崩壊ないし相対化という形で現れている(Fuhrmann, 2004)。他方、A. ブルームの『アメリカン・マインドの終焉』(Bloom, 1987)やD. シュヴァニッツの『教養』(Schwanitz, 1999)などに見られるように、欧米では80年代以降教養の危機と教養カノンの再構築の必要性を説く言説が一定の社会的支持を得ており、これらの本がそれぞれアメリカ、ドイツで出版後ベストセラーになっていることからも、教養カノンへの社会的需要が依然として存在することがうかがえる。

N 日本における教養主義とカノン形成

 近代日本の場合、正統的文化の定義に与って影響力の大きかったのは、学歴エリートのサブカルチャーとしての「教養主義」であった。教養主義を支える基本的出版形態(文庫、全集、読書案内等)が昭和戦前期に確立し、戦後も長い間これらが実質的に教養カノンとして機能してきたと考えられる。国民文化形成の一環としての国民的カノン形成の一方で西洋的教養カノンが受容され、後者は主としてこれらの活字メディアを通して浸透した。日本でも近年、「教養の危機」に関する言説とカノン再構築の試みが見られるのは、社会的背景は異なるにせよ欧米と同様である。なお、日本の場合の特殊性として、教養主義のもつ無節操な雑食的性格(唐木順三)、さらには日本思想の「無構造の伝統」(丸山真男)といったものがもしあるとすれば、日本ではもともと正統的文化ないし教養の内容規定に関して「寛容」な伝統があったといえなくもない。この点はあらためて検討してみたい。

【主要参考文献】

Bloom, Allan, 1987: The Closing of the American Mind. New York: Simon and Schuster(=菅野盾樹訳『アメリカン・マインドの終焉??文化と教育の危機』みすず書房、1988年)
Bourdieu, Pierre, 1979: La distinction. Critique sociale du jugement. Paris: ?ditions de Minuit. (=石井洋二郎訳『ディスタンクシオン: 社会的判断力批判』1・2、藤原書店、1990年)
Fuhrmann, Manfred, 2004: Der europ?ische Bildungskanon. Frankfurt a. M./Leipzig: Insel Verlag.
片岡栄美、2000:「文化的寛容性と象徴的境界」今田高俊編『日本の階層システム5 社会階層のポストモダン』東京大学出版会
Peterson, Richard A., 1993: “Understanding audience segmentation: From elite and mass to omnivore and univore,” Poetics 21.
--------, and Kern, Roger A., 1996: “Changing Highbrow Taste: From Snob to Omnivore,” American Sociological Review 61-5.
Schulze, Gerhard, 1992: Die Erlebnisgesellschaft: Kultursoziologie der Gegenwart. Frankfurt a. M.:Campus.
Schwanitz, Dietrich, 1999: Bildung. Alles, was man wissen muss. Frankfurt a. M.: Eichborn.
竹内洋、2003:『教養主義の没落??変わりゆくエリート学生文化』中公新書

(たなか のりゆき・京都大学大学院文学研究科助教授/社会学)



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