21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
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■第14回研究会レジュメ

《報告1》

 2005年7月9日(土)
於:京都大学文学部新館

日本キリスト者における宗教的寛容の問題の一例

――内村鑑三の場合――

岩野 祐介



序 日本キリスト教の状況と宗教的寛容
 

現代の日本キリスト教が多元的宗教状況の中で社会といかに関わっていくべきか、ということを考える上で、同じ問題に関する明治日本キリスト者たちの態度は、大きな手掛かりとなり得る。
 日本にキリスト教が受容されたのは、日本の近代化に役立つかぎりにおいてのみであり、それに合わない部分については攻撃あるいは黙殺されてきたようなところがある。そのような状況下、日本キリスト教が文化的、教養的な面を強調し生き残りをはかったことはある種仕方のないことであったかもしれない。しかし内村鑑三は、単なる近代化の精神ではないまさに宗教としてのキリスト教を真剣に探求した人物なのである。

1. 内村鑑三は寛容な人物か

一般的なイメージとしては、内村は決して「寛容」な人物であるとは思われていないのではないだろうか。例えば亀井勝一郎は、内村の非寛容さに魅力を感じると述べる。また遠藤周作は、『芸術は多くの場合において信仰の妨害者である』とはっきり言う内村を、うらやましいと思いながら同時に抵抗するのだ、と言っている。
 このように、非寛容、断定的、頑固といったところに内村の性格的特質があることは間違いなさそうである。そしてこの頑固さの土台にあるもの、この頑固さをさらに強化しているものこそが、彼の信仰なのではないだろうか。
 そもそもキリスト教信仰の土台にあるのは「罪のゆるし」であり、「ゆるし」とはまさに寛容の精神である。その意味においては内村もキリスト教的な寛容の精神を求めている。ただし内村によれば、寛容さとは自らが努力して獲得できるようなものではない。人が寛容であるためには、まず救済され内的に充たされるという体験をする必要がある、と彼は考えていたのである。
 その一方で、内村には寛容を求める態度とは一見矛盾して見えるような、厳密で非寛容な部分がある。これについて、直接寛容という言葉を用いてはいないが、内村は「…真の愛に怒りが伴ふ、怒らざるは偽りの愛にあらざれば浅き愛である。神が屡々その民を怒り給ふは彼が深く強く彼等を愛し給ふからである。」と述べている。
 つまり、内村における寛容さとは、基本的に許せることに関しては許すということ、そして許せない部分については、それを無闇に拡大しようとはしない一方、安直に縮小しようともしない、ということになるのではないだろうか。そこには、どこまでが寛容な態度で臨める範囲なのか、という判断が伴うはずである。それを曖昧にしたまま、何でも構わず受け入れ容認するというのであれば、それは無節操あるいは無思慮であり、寛容とは異なるものではないだろうか。内村の場合、許せないという判断が信仰に基づいて下されているため、その強度が極めて強く揺るぎがないということになると考えられるのである。

2. 他宗教に対する内村の態度

 内村は仏教に対しても一定の理解を示しており、決して排他的であったわけではない。他宗教に対する基本的態度は、相互に理解した上で違いは違いとして明らかにせよ、というものである。他宗教を信徒獲得の上でのライバルのように考えてはいなかった。他宗教に対しては、概して寛容であると言ってもよいであろう。この寛容さの根源は、神の無限性、絶対性に対する人間の有限性、相対性の意識にあるように思われる。内村によれば、真理は終末的な神の裁きにより明らかになる。最終決定を全て神に委ねる以上、人間どうしの間で他宗教と勝ち負けを云々するのは無益なことであるということになるだろう。
 このように、全てを神に委ねるという考え方をもつ内村は、人間が人間を越えるものを憧れ求めることに関しては、キリスト教の枠を越えた理解を示しており、仏教の中でも浄土系仏教者の信仰を積極的に評価している。その回心体験において自らのエゴと深刻に向き合わざるを得なかった内村にとって、自己の無力を強調する浄土系の信仰は特に強く共感できるものだったのである。
 ただし内村は「神によりたのむ」ということを、「他力とは云へ、自己の外に働く他力ではない。『汝等の衷に働き』といひて、衷に働く他力である。即ち自力となりて働く他力である。聖書の言を以て云へば、聖霊である」と言い、仏教的「他力」と区別している。また仏教は慈悲のみであるが、キリスト教には愛と義の両方があることを挙げ、はっきりと自らはキリスト教を選ぶことを表明している。この愛だけではなく同時に義も必要であるいう観点は、日本の伝統的な精神性に対する内村の態度において、はっきりとあらわれてくることになる。

3. 文化、文学に対する内村の態度
 

宗教的でない世俗的なものに対する態度は、内村の非寛容ぶりが著しく現れる部分である。とはいえ極端に言えば、内村とって宗教と無関係な問題などはない。彼はあらゆることに関して、そこに宗教的な意味を見出そうとするからである。第1次世界大戦という政治的・外交的な問題に対して、再臨運動という宗教的な行動によって向き合ったことなどからもそれは明らかであろう。ここでは特に、演劇を含む文学に対する内村の拒否感について検討してみたい。

  「…余にとりては小説は虚偽であるから面白くない、…」
「…純潔なる基督的家庭に於て青年に対する二個の禁物がある、其一は観劇である、…其二は小説である、…劇といひ小説といひ其中に稀に偉大にして善美なるものありと雖も畢竟するにそのnet result(勘定し上げたる結果)は十誡第七条の罪への誘導である、…」

 そもそも内村には、芸術全般に関するある種の警戒心がある。芸術は自己目的化し得るものでありそれゆえ信仰と相容れない要素が芸術にはある、と内村は考えていた。内村においては、「全ては神のため」だからである。
 またフィクションであるということ自体に対する拒否反応もあることは確かである。もちろんフィクションには時に過酷な現実を忘れさせ、それに立ち向かうための慰めと活力を読者・観客に与えてくれる力があるのは確かではあるだろう。それゆえ、内村の主張はあまりにも極端で、的外れなところがあるとも言える。
 注目すべきは、十誡第七条、すなわち「汝姦淫するなかれ」にからめて小説、観劇を禁じていることである。内村は喩えフィクションの中であっても、非倫理的行為を容認すべきではないと考えているのである。内村がここまで姦淫ということを深刻に考えるのは、端的に言えば姦淫は家庭、「ホーム」の破壊に繋がるからである。内村にとって家庭とは、そこに神が宿る神聖なものである。ゆえに、その破壊の「誘導」となる可能性があるというだけで、観劇、小説の全てを禁止するような過敏とも思われる反応を示すのである。
 さらに、これら小説、演劇等の背景に存在していた「情」を重んずる精神性に対して、内村が批判的であったということも指摘できる。義とは正義であり、それは善悪の判断基準である。しかし情だけで義がない人間は正しい判断ができず、複数の情の間で引き裂かれることにもなりかねない。義というものにもまた人を縛り抑圧しかねない要素があるのは確かである。しかしそのような義はいわば人間どうしの相対的な義であって、内村が求めた神に対する絶対的な義ではないのである。
 加えて、日本における文学者の伝統的なあり方それ自体に対しても内村は厳しい目を向けている。内村によれば、文学とは本来「この社会、この国を改良しよう、この世界の敵なる悪魔を平らげよう」との目的を持って戦うための手段である。しかし日本における文学とは「怠け書生の一つの玩具」、「たいそう風流」で貴族的なものでしかなかった、と内村は言うのである。
 「観劇、小説は禁物である」と内村が言うとき意味されていることは、それらがキリスト者としての生活の根本を揺さぶるような、大変危険なものであるということである。信仰の維持とはそこまでしなければならないほど困難なものであり、また信仰とはそれだけの価値があるものであるということなのであろう。
 但しその上で、一人の信仰者にとって、何が本当に信仰の妨げとなる危険なものか、ということを、師弟的人間関係における禁止としてしか表現できなかった点は内村の欠点でありまた限界でもあったと言える。それは本来、各個信徒が自ら見出さねばならない性質のものである。内村はキリスト教を個人の信仰であると言ったのであるから、何かを断定的に禁止するようなことをすべきではなかったのではないか。

4. 結びに代えて

 このような内村の態度を、文化的理解に欠けるとして批判するのは簡単である。しかし文化的かどうかということも単に一つの価値観に過ぎない。ある宗教を真正面から信仰しようとした時に、周囲の文化とある程度の軋轢が生じることは無理のないことである。内村は彼の全存在をかけて、宗教的なあり方を選択したのである。それは決して容易な道ではなく、故に彼はその妨げ、誘惑となり得るもの全てに対して非常に強く警戒していたのであった。
 内村に言わせれば、何故天皇崇拝とは戦いながら、文化芸術崇拝や科学技術崇拝、あるいは金銭崇拝とは戦わないのか、ということになるのではないであろうか。その打出し方には確かに断定的・独善的な面があるものの、信仰の本質ということを考える上で内村の言葉には依然として看過できない重みがあるように思われるのである。


(いわの ゆうすけ・京都大学大学院文学研究科博士課程/キリスト教学)



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