21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
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■第16回研究会レジュメ

《報告2》

 2005年12月3日(土)
於:京都大学文学部新館

フィリピン社会と宗教

ー比喩形象と公共性、もしくは『キリスト受難史と革命』翻訳をとおしてー

                                        川田 牧人

【要旨】


レイナルド・イレート著『キリスト受難詩と革命』は、1840年代の聖ヨセフ兄弟会から1910年代の聖教会にいたる、フィリピン革命期のさまざまな民衆運動を民衆自身の認識の枠組にもとづいて「底辺から」の歴史叙述をおこなったフィリピン研究の古典的名著である。この邦訳に携わった経験から、報告者が現在取り組むフィリピンの宗教・社会研究の課題と関連づけて考えてみたい。原著から学ぶことは非常に多岐にわたるが、発表では比喩形象という理解のあり方と、bayan(国家、祖国)の概念から得られる展望についてとりあげたい。

従来のフィリピン革命研究においては、19世紀、国際港湾としてのマニラの「開港」によって外国貿易や資本投資がさかんになり、その結果、台頭した地方有力者層(プリンシパーリア)が子弟をヨーロッパなどへ留学させたことが、有産知識階層(イルストラード)の形成や西洋自由啓蒙思想の流入を引き起こし、革命思想を啓蒙宣伝するプロパガンダ運動が起こったことを重視する考え方が有力であった。これに対しイレートは、「パション(キリスト受難詩)」が、植民地体制の秩序を維持する機能があると同時に、それとはまったく逆にみずからの価値観、理想、解放の希望などを表現する“言語”をもたらした点に着目し、聖週間を中心とした民衆の宗教経験、とりわけキリストの受難・死・復活の物語が彼らの抵抗運動の概念枠組を形づくっていった様態を民衆の詩歌や詠唱、民間文学などから読み解いていく。本書では、「お守り(anting-anting)」=魔よけ、呪力を発揮するお守り、「内心(loob)」=人間の心の内面、奥深い精神状態、「共感(damay)」=他者の経験への参入、「行脚(lakaran)」=革命運動の萌芽的過程に関わる身体運動としての巡礼、「自由/独立(kalayaan)」=厳しい親の管理の手を逃れること、といったさまざまな基本概念が重層的に交錯しながら、革命に参加した民衆の精神構造や心性が生成され、諸運動への参加実践が深化していった様態が描かれている。

本書の中心的課題のひとつは、著者イレート自身によれば、「大衆の聖週間の経験が、スペイン植民地時代と初期アメリカ植民地時代における農民層の兄弟愛や蜂起の様式を根本的に形づくった」[イレート 2005:22]ということである。聖週間における個人的宗教体験がより広い社会劇に適合され、キリストの受難への「共感」が、困難であった革命運動への主体的参入をもたらしたのである。イレートはこの視角を、エーリッヒ・アウエルバッハの「比喩形象性」からヒントを得ながら開拓した。すなわち、「甲乙二つの事件あるいは人物の間の関係を定め、甲はそれ自身のみならず乙を意味し、また乙は甲を包含する解釈であって、一つの比喩形象の甲乙二つの両極は時間的には離れているけれども、両者とも現実の事件または人物として時間の内部に存在している」[アウエルバッハ1994:上134]と規定される比喩形象的解釈は、フィリピン革命期の民衆運動に繰り返しあらわれるキリストの受難物語への主体的参入にも適用可能なものであった。 

比喩形象的理解には、時間的離切、意味の複数性、非因果論的関係、超越者の存在といった諸点を指摘することができるが、報告者はこれをさらに、現在取り組んでいる東南アジア・オセアニア地域における呪術的諸実践と概念枠組に関する文化人類学的研究に有効に援用できるのではないかと考えている。比喩形象的理解という観点を導入することで、呪術を施す人、あるいはその施術を受ける人のなかでは、いかなる事態が起こっているのか、すなわち人が不思議なこと、神秘に向かっていく様態をそのものとして、いかに捉えるか、という課題を捉える視角が得られるのである。

呪術の語りにはしばしば、出来事(病気や不幸)、診断と原因の措定、呪術的行為(施術など)といった構成要素が見出され、これらの要素の組み合わせにおいては、呪術研究では定番の「一見して非合理な信念」といった指摘がなされる。ここで「非合理」といわれるのは因果論的な観念連合でない特質がみられるからであるが、対極に科学的合理性を想定するかのような因果論的関係でもって説明・解釈することには限界がある。しかし因果関係ではないとしても、何らかの論理的関係があるからこそ一連の語りのセットとして提示されるわけである。そこで、因果関係に代替するものとして比喩形象的関係を見出すことができれば、呪術的諸実践の現場で起こっている当事者による事態の諒解のあり方を、因果論的理解とは異なった様態で捉える可能性が拓けるのではないかと考える。

比喩形象的関係においては、時間的にも因果関係の点からもつながりのないふたつの出来事に、あらかじめ表象するもの、あるいは告知され約束されているという関係が成り立っているとされる。個々の出来事は感覚的・具象的出来事であるが、両者の間には時間的にも因果論的にもつながらないはずの出来事に関連性が見出されるという理解の様式である。呪術的諸実践には、一般に周囲に生起する出来事がわかるという場合の「理解」だけでなく、ことばでは十分に表現・説明しきれないことをも受け入れてしまう「半理解」、さらには特定の出来事を意識的に把握しはするがそれを否定的に解釈したり拒絶したりする「反理解」など、さまざまな諒解の様態が見出されるが、これらを比喩形象的理解の諸様式として考えることができるであろう。

もう一点、フィリピン革命の中心を担った結社「カティプーナン」の正式名称、”Kataastaasan Kagalanggalang Katipunan ng mga Anak ng Bayan”の邦訳をめぐる顛末がある。イレートに先んずるフィリピン史研究の重鎮テオドロ・アゴンシリョはこれを「”Highest and Most Respective Society of the Sons of the People”…すなわち「人民の子たち」と訳している」のに対し、「イレートはこれを英語で”The Highest and Most Honorable Society of the Sons of the Country”と訳しており、本翻訳書においても、これに従って「祖国の子たちの最高でもっとも尊敬すべき結社」と訳した」[ibid. 491-492;永野善子「解題」]のであった。この翻訳の困難は、「bayan」という語の多義性によるものである。このbayanの意味のひろがりは、現代フィリピンにおける市民社会と公共性を考える上でも重要であると考える。

bayanという語は使用される文脈によって異なり、まち(town, municipality)、ふるさと(native land, fatherland, motherland)、くに(country, nation)、ひと、公、市民(public, people, citizens)などさまざまな意味がある。とりわけこれがフィリピンの国家建設の草創期にあたるフィリピン革命期にあっては、nationを意味する用語として用いられたことが重要であったわけだが、この国家ならびに国民の概念を称してアンダーソンは「想像するに困難」と指摘する[アンダーソン 2005、第11章「想像することの難しさ」]。ホセ・リサールが『ノリ・メ・タンヘレ』や『エル・フィリブステリスモ』を著したフィリピン国家の胎動時代、国家や国民の概念はある種の「産みの苦しみ」をともなって考案されたのであったが、百年もへずして、ゲレロによる英訳にはその難産の紆余曲折が捨象されてしまうほどに「想像するに困難」だったのである。

硬直しがちな国家という近代概念をbayanを介して考えることの利点は、このような想像困難性を乗り越える点にあると考えられる。発表では、Inang Bayan(母なる祖国)の表象としての聖母マリアが、ローカル・レベルからナショナル・レベルまでさまざまな形象をともなって見出されることをとりあげる。身の丈サイズに拡大縮小できる「伸縮自在」なbayanという概念は、あるときには国家に極度にすり寄り、同時に極端に遠心力を持った対抗的主体ともなりうる「市民」をフィリピン社会に見出す際にも重要であると考えられる。非西洋社会にける市民社会論はNGO・NPO論が中心をなすが、bayan論はそれ以外にも市民社会論が成り立つ可能性を考える道筋でもある。


参考文献

アウエルバッハ、エーリッヒ

  1994『ミメーシス ―ヨーロッパ文学における現実描写―』ちくま学芸文庫

アンダーソン、ベネディクト 

  2005『比較の亡霊』作品社

イレート、レイナルド

  2005『キリスト受難詩と革命』法政大学出版局

 

                                         (かわた まきと・中京大学社会学部助教授/社会学)


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