21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
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■第19回研究会レジュメ

《報告2》

 2006年7月22日(土)
於:京都大学文学部新館

内村鑑三における隣人愛思想

岩野 祐介

【要旨】

公共性、寛容の土台としての隣人愛思想

 現代の公共的な場においては、相互に多様なあり方を認め合う寛容さが必要とされている。そのような社会を実現させるために、日本社会においても歴史的に様々な取り組みがなされてきた。そこで宗教が果たした役割も決して小さいものではない。キリスト教に関していえば様々な具体的社会参加を通して公共性の構築に関わってきた歴史があり、その功績を無視することはできないであろう。その土台となったものは、隣人愛思想であると思われる。
 本論では、無教会主義キリスト者内村鑑三の隣人愛に関する思想を取り上げる。内村の預言者的とも言われる精神の根底には、やはりキリスト教信仰に基づく人間に対する愛、隣人愛があるのだと思われるのである。キリスト教における隣人愛思想を内村はどのように解釈していたのだろうか。

明治期キリスト者による社会参加と内村鑑三の社会参加論
 明治期にはキリスト教を近代化の精神ととらえたキリスト者も多かったが、内村鑑三は、キリスト教と西欧近代文明とを区別して考えようとしていた。彼にとって、キリスト教的な「救済」と、社会的な救済とは、関連しつつもやはり別のものだったのである。内村は、キリスト教会による社会参加が自己目的化することに関しては疑問を感じており、またそれが本当にキリスト教的隣人愛のあらわれであるのかどうか、見極めねばならないと考えていた。内村によれば、善行は個人が救済を得たその結果として表れ出てくるものである。必ず、個人の救済が先であり、社会参加は後になるのである。

信仰と社会参加
 内村は、隣人愛の実践とは神への感謝であると考える。神はその独子を与えるほどに人間を愛したのである。そのように愛された人間は、その愛に対して応答せずにはいられないはずであり、「神の愛を受け容れて他者を愛する」ことが、この神の愛に対する応答となる、と内村は述べるのである。現世に生きる人間は、同じ現世にある者に対して愛を示すことにより神の愛に応答するしかない。全て愛他的行為は、神からの愛に対する応答であり、神から愛されることによって可能になるものなのである。

内村の聖書解釈に見る隣人愛思想
 イエスが隣人愛について語った譬話の中で最も著名なものは「よきサマリヤ人の話」ではないであろうか。この譬話について内村は、隣人となること、隣人愛を働かせることは、「永生」への鍵であり、「隣人愛」とは、他者を「隣人」として扱おうとすることである、と考えている。端的に言えば、隣人・同胞を家族のように扱うのが隣人愛なのである。そしてその範囲は同胞だけでなく敵にまで拡大されるとされる。
 しかし、「敵を愛する」ことは困難であり、それは神の心でなければ実行できないことである。だがそれは困難だからといって諦められるような性質のものではなく、芸術家にとっての美のような、探求すべきなのである。人間はイエスへの信仰を持つことにより、終末的な完成の約束を得ることになる。そしてその希望に励まされ、人間は時に理屈や打算では説明のつかない、自らのエゴイズムを超えた行動に出るのである。そのような人間の可変性、そして壮大な希望に感動できるだけの感受性に対しては、内村は期待を抱いていたと考えられる。
(いわのゆうすけ・京都大学大学院文学研究科博士後期課程/キリスト教学専攻)

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