21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
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■第6回研究会レジュメ

《報告1》

 2003年12月20日(土)
於:京都大学文学部新館

寛容と不寛容
西ケニアにおけるキリスト教布教をめぐって

松田素二(京都大学大学院文学研究科教授)

問題の設定

 キリスト教やイスラム教といった「世界宗教」が、「世界宗教」たるゆえんは、ローカルな社会と接触しそこで暮らす人々を「教化」しつづけた結果であることは間違いない。こうしたローカルな社会には、当然のことながら、土着の宗教や信仰の体系が存在した。「世界宗教」は、これら土着の体系と競合・包摂し、ときには暴力的に破壊・征服することで、その土地に基盤を形成することになる。この過程を、20世紀初頭の西ケニアにおけるキリスト教布教を題材にして、文化社会学的に考察することが本報告の目的である。
 それを通して、キリスト教布教が、どのような文化的技法と政治経済的背景のもとで成し遂げられたかを明らかにするとともに、この外来の「世界宗教」に包摂された西ケニアの人々の文化的主体性がどのようにして現象するのかについて検討してみたい。

西ケニアとキリスト教

 調査対象地域となった西ケニア・マラゴリ地方は、ケニアのなかでも、もっともキリスト教化が早期に進行した地域として知られる。
 現在南マラゴリ郡のビグル郷五ヶ村だけで、40近い教会が活動している。日曜の礼拝だけではなく、平日の午後、賛美歌を歌いながら信者の家々を巡回し、病気や失業、飢えや悩みを解決するために集団で祈祷をする光景は、村の日常となっている。人口5千人足らずの狭いビグル地域に、異常な数の教会が林立しているのには、歴史的な背景がある。
 圧倒的な武力の行使によって「イギリスによる平和」が確立した20世紀初頭の西ケニアは、モンバサ、ナイロビやカンパラで待機していた多くのキリスト教宣教団にとっては布教のための新天地であった。もっとも早く来訪したのは、クエーカー教団の宣教団で1902年には西ケニアに姿を見せた。クエーカーのフレンズ・アフリカ伝道団はその年に、マラゴリの東隣りのカイモシに伝道拠点を築いた。その後1905年には南マラゴリ地方の西に10キロほど離れたマセノに聖公会の教会伝道協会(CMS)の活動拠点が進出してきた。
 宣教師たちは、植民地政府による数十回にわたる出兵によって、白人支配の受容を強要された村々に入り込み、恐る恐る伝道を開始した。「もっとも未開で後進的だが、勤勉で気性が穏やかな」西ケニアの民は、彼らにとって理想の布教対象となり、短期間で多くの改宗者を生み出すことになった。

植民地支配以前の信仰実践

 キリスト教侵入以前、西ケニアの人々は、祖霊(オムサンブヮ)を媒介として最高神の存在を信じ崇拝していた。家長の小屋のそばには、三つの石を置き真ん中にオルォヴォの木の枝を立てた簡単な祠が建てられていた。キリスト教が西ケニアに入ってきたとき、宣教師がまずおこなったのは、この祠を破壊することであった。一族の祝福と災厄を司る祖霊は、白人の神の邪魔者として抹殺されたのである。さらに聖書のマラゴリ語訳の過程で、偶像という言葉に、祖霊を意味するオムサンブヮという単語をむりやりあてた。そのため祖霊を崇拝することは、そのまま反キリスト教的意味を直截に帯びることになった。こうした大技(武力行使)小技(神学上の小細工)を駆使して、伝統的信仰世界を破壊して、新しい白い神の世界を植え付けたのである。

フレンズ伝道団とマラゴリ社会

 西ケニアをめぐる伝道合戦のなかで、マラゴリに関して勝ち組となったのは、フレンズ派の伝道団であった。フレンズ派の伝道は、聖公会のやり方とは対照的であった。聖公会が、学校を建設して白人の価値観を内面化した現地人エリートを育てようとしたのに対して、フレンズ派は、建築職人や被服職人などの実業教育に尽力した。また水車を利用した水汲みや製粉作業を女たちに教え込んだ。導入したのも、フレンズ教会であった 。ピューリタンらしい厳しい教えとともに、こうした生活改善に直結した便利さを携えて彼らは布教を続けた。フレンズの宣教師たちの教えをうけたマラゴリの人々のなかには、白人世界の「優越性」を素直に認め、伝統的な慣習を「遅れたもの」として斥けるようになったものも出現した。
 フレンズの伝道団がもたらしたもう一つの重要な意識革命は、白人のために賃労働することを文明の名の下に推奨したことである。そのためにフレンズの影響が強い地域からは、20世紀の早い時期から賃労働出稼ぎが常態化するようになった。そのなかでも南マラゴリ地方はフレンズ教会の金城湯池であった。下の表は、西ケニア各地の主要フレンズ教会の活動状況を表わしたものだが、全体の改宗者および改宗予定者の実に6割以上が、南マラゴリのビヒガ集会に集中している。1925年、フレンズ伝道団は、いち早く聖書のマラゴリ語版を完成させ、多くのマラゴリ人青年を宣教助手にして、その聖書とともに西ケニア各地に派遣した。こうしてフレンズ派はマラゴリ人のキリスト教になったのである。

受容のなかの主体性

 欧米からのキリスト教伝道団各派が、西ケニアの席巻したのは20世紀初頭だったが、南マラゴリ地方の場合、1930年代までには村々に教会が林立し、全域のキリスト教化が完了した。当初、白人宣教師だけが布教を担当していたが、徐々にアフリカ人宣教助手が一人前の牧師となり、教会下部組織のアフリカ人化が進んだ。だがこの時期、一方では、白人文化としてのキリスト教に反発して白人主導の教会組織から抜け出し、アフリカ人によるアフリカ人のためのキリスト教会を標榜する、小規模でインフォーマルな教会が雨後の竹の子のように多数誕生した。これらを総称してアフリカ独立教会と言う。
 フレンズ伝道団のように、プロテスタント諸派のなかでもとくに禁欲的な教会が支配的だったマラゴリ地方では、憑依と陶酔、激しい太鼓と踊り、派手な原色のコスチュームは御法度だった。それゆえに、逆にこれらの価値を過度に強調し伝統社会の慣習を積極的に取り入れ再創造することによって、キリスト教の換骨奪胎をはかる動きが活発になった。彼らは、母教会であるフレンズ教会から分裂し、マラゴリ人をメシアとする「聖霊教会」などの独立教会をうちたてていった。1930年代には、こうした独立教会は、旧約聖書を独自に解釈した神学のもとで多くのマラゴリ人信者を獲得し、イギリス植民地政府の潜在的脅威となった。

 キリスト教はたしかに普遍的基準と神学をもつ、「世界宗教」だが、その浸透と発展の過程で、ローカル文化と折衝し妥協しながら、多様な宗教実践の併存をつくりあげていったという点において、土着の文化にも開かれていったのである。


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「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「多元的世界における寛容性についての研究」研究会

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