21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
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国際シンポジウム2006

多元的世界における宗教的寛容と公共性―東アジアの視点から―


【日時】 2006年11月18日(土)

【会場】 京都大学文学部新館・第7講義室

【司会】田中紀行(京都大学大学院文学研究科助教授)

【基調講演】澤井義次(天理大学教授)

【公開討論】
  パネラー
  芦名定道(京都大学大学院文学研究科助教授)
  飯田剛史(富山大学経済学部教授)
  楊聡(上海第二工業大学日本語研究所助教授)
  金文吉(釜山外国語大学校東洋語大学教授)

【コメンテーター】
  松田素二(京都大学文学部教授)
  金承哲(金城学院大学人間科学部教授)
  檜垣樹理(足利工業大学共通課程助教授)
  坂部晶子(島根県立大学総合政策学部助手)


シンポジウムの趣旨

芦名定道(京都大学大学院文学研究科)

 今回の国際シンポジウムは、本COE研究会のこれまでの共同研究を総括するという意図のもとで実施されます(これまでの研究会活動に関しては、 http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/tolerance/index.htmlをご覧ください)。 具体的には、多元的世界、寛容性という広範な内容にわたる問題を、宗教・民族、公共性、東アジアという観点・問題連関から、また思想史的あるいは社会学的な方法で論じるというのが、これまでの研究会の議論の流れでしたが、本シンポジウムでは、全体テーマを「多元的世界における宗教的寛容と公共性−東アジアの視点から−」とした上で、澤井義次先生に、東アジアの多元的世界の問題性、その中での宗教間対話の現状と意義、今後の方向性などについて、基調講演をいただき、その後に、4人のパネリストによるパネル・ディスカッションを行いたいと考えています。 パネリストの方々には、先の全体テーマを、より具体的なものとするために「東アジアにおける多元社会の展開とその諸問題−宗教・民族−」というテーマの下で、それぞれの立場や視点から、議論を展開いただくことになります。まず、コーディネーターである芦名が、基調講演を受けて、またこれまでのCOE研究会との関わりを含めて、問題提起的な提題を行い、続いて、飯田剛史、楊総、金文吉の各パネリストに、日本、中国、韓国というそれぞれの研究フィールドからの提題(具体的な問題状況に即した議論から出発し、より一般的な議論あるいは今後の研究の展望へ)をいただきます。基調講演とパネルの提題の全体によって、これまでのCOE研究会の成果を確認し、今後の研究の方向を展望したいと考えております。


基調講演

多元的世界における宗教的寛容と公共性
―東アジアの視点から―

                                  澤井義次(天理大学)

内容

 1.はじめに
 2.東アジアにおける宗教的多元性と宗教倫理 ―宗教的寛容性と公共性をめぐって―
 3.宗教間対話の現状と意義 ―おもに宗教倫理学会の研究プロジェクトをとおして―
 4.むすび

1)はじめに

 多元的世界を〈意味世界の多様性〉の状況として捉えなおす。そのとき、存在のリアリティに関する多様なコスモロジー(人間観・世界観)を提示する諸宗教は、宗教的多元性を示す公共空間の中で、どのように宗教的寛容性を構築していくことができるのだろうか。
 こうした問題意識にもとづいて、まず、東アジアの多元的な意味世界において、人々が伝統的に宗教や文化の違いを超えて、宗教的寛容性と公共性を内包するような宗教倫理を、いわば「心の習慣」として共有してきたことに注目したい。そのうえで、とくに東アジアの視点から、新たな宗教間対話のあり方とその意義について論じたい。具体的には、2000年に発足した宗教倫理学会が、研究プロジェクトをとおして、これまで展開してきた宗教間対話に言及しながら、多元的な意味世界としての公共空間における宗教的寛容性のあり方について考察したい。

2)東アジアにおける宗教的多元性と宗教的倫理
  ―宗教的寛容性と公共性をめぐって―

*東アジアにおける「宗教的多元性」
 グローバル化が急速に進んでいる現代世界において、東アジアにおける「宗教的多元性」の状況を認識するとともに、「宗教的多元性」の意味を考察したい。
 宗教的多元性とは、「一つの地域あるいは階層や集団内部に複数の宗教が存在するという事態」(芦名定道「多元的世界における宗教の問題」−21世紀COEプログラム・国際シンポジウム2005「宗教の多元的状況と仏教」を参照)である。現代の宗教的多元性を特徴づけているのは、氣多雅子によれば、「多様な宗教の並存が無宗教の空間を背景とする」という点である。
 また「現代のグローバル化が開く空間はまったく世俗的なものであり、宗教多元性とこの世俗的空間とはいわば図と地の関係にある」(氣多雅子「宗教の多元的状況と仏教」−21世紀COEプログラム・国際シンポジウム2005「宗教の多元的状況と仏教」を参照)。 また、東アジアの地域では、宗教的多元性は近代以前から、いわば一つの伝統を形成し、早い時期から宗教間対話について、理論的かつ実践的な取り組みが行なわれてきた(芦名定道「多元的世界における宗教の問題」参照)。

*東アジアにおける宗教の重層的多元性
 東アジア地域において、たとえば韓国では、儒教、仏教、道教、キリスト教、新宗教、シャーマニズム、庶民信仰などが存在し、宗教の多元的な状況がみられる。また、個人が複数の宗教に関わっている、いわば宗教の重層的な状況がみられる(金鍾瑞「韓国宗教と宗教学」『宗教研究』347号、2006年を参照)。
 こうした状況は、日本ばかりでなく中国においてもみられる。つまり、東アジアでは、韓国と類似した宗教の重層的多元性が伝統的に存在してきた。

*宗教的寛容性と公共性を内包する宗教倫理とその涵養
 東アジアの多様な意味世界における宗教倫理を把握するとき、それは宗教的寛容性と公共性を内包する、いわば「実践知」の性格をもっていた。宗教的寛容性が求められる場は、洗練された神学(あるいは教学)の次元というよりはむしろ、宗教の担い手が生活する日常的な意味世界である。それはすべての宗教的な意味世界に開かれている公共の生活空間、すなわち日常的な意味世界である。そうした日常的な意味空間、公共の生活世界が多様な宗教の信仰者によって構成されることを理解するとき、そこに宗教的多元性を承認し合う宗教的寛容性と、多様な宗教的な意味世界の併存を可能にさせる公共性の認識が求められる。
 ここで、宗教的寛容性と公共性を内包するような宗教倫理の特徴を把握するうえで、中国哲学の世界的権威、杜維明(Tu Weiming ハーバード大学教授)の指摘は示唆に富む。杜によれば、東アジアの宗教倫理は「儒教的」(Confucian)な特徴をもっているという。かれがいう「儒教的」とは、従来の「古典的な儒教」とか「朱子学」を表現するような従来の宗教概念ではなく、それはむしろ「数世紀のあいだ、儒教的教育の影響下にあった社会において、生の形態、心の習慣、あるいは社会的実践を概念化するための新たな方法」を意味する(Cf. Tu Weiming, "Implications of the Rise of "Confucian" East Asia," Daedalus vol. 129,No.1[Winter 2000], p. 215.)。
 こうした杜の指摘には、仏教やキリスト教などの宗教の立場、あるいは宗教学の立場から、この概念的把握があまりに狭すぎるという異論が出るかもしれない。東アジア地域は伝統的に宗教の多元的状況にあったし、現在もそうであるので、それは当然であろう。ただ、杜の指摘をとおして、私がここで強調したい点は、東アジアにおいて、儒教や仏教などの宗教教育が、たとえそれを宗教教育とよばないとしても、伝統的に日常生活の中で行なわれてきたし、また、それが東アジアにおける「生の形態」(the form of life)とか「心の習慣」(the habits of the heart)を形成してきたことである。それは東アジアの公共空間、あるいは日常的な意味世界において共有される宗教倫理として、人々のあいだに宗教的寛容性を涵養してきたと言えるであろう。


 こうした宗教倫理は、日常的な意味世界という公共性のレベルで、無自覚的に蓄積されてきた、いわば「実践知」であった。ところが、グローバル化が進展する現代世界においては、宗教の枠を超えて、宗教の果たすべき社会的な役割を語り合う「宗教間対話」をとおして、いわば「理論知」としての宗教倫理や宗教知識が共有されるべきであり、また、その重要性を私たちは認識する必要がある。そうした「理論知」の習得によって、日常的な意味世界としての公共空間において、宗教的寛容性が涵養されていくと考えられる。

3)宗教間対話の現状と意義
  ―おもに宗教倫理学会の研究プロジェクトをとおして―

*宗教多元的世界における宗教間対話
 宗教間対話はその目的と形態から、山梨有希子によれば、次の3つに分類される。すなわち、(1)「対話」―何らかのテーマのもとに、諸宗教の代表者や学者が参集して論議を行なうこと、(2)「宗教間協力」―諸宗教を信仰する者が、何らかの目的のために、一致協力して行動をおこすこと、また、(3)「霊性交流」―宗教の異なる者たちが、同じ体験を分かち合うことによって、相互の理解を深める。これら3つの形態は、具体的に交じり合っているという。(山梨有希子「転機にある宗教間対話」『現代世界と宗教の課題』蒼天社出版、2005年、48−50頁。)
 宗教倫理学会の研究プロジェクトでは、「対話」「宗教間協力」「霊性交流」というこれら3つの形態が有機的に連関している。

 *宗教倫理学会の研究プロジェクトとその視座 宗教倫理学会の第1回学術大会  2000年12月9日(土) 於 同志社大学
 学会設立の意義と目的    「宗教倫理学会は、宗教の視点から現代の倫理的課題を幅広く考察し、その成果、とくに21世紀における宗教のあり方や可能性を世界に向けて発信し、社会的にそれを共有することを目的として、設立された。宗教や宗派の枠を超えて、すなわち宗教的立場の違いを超えて互いに宗教の社会に果たすべき使命や役割を語り合っていこうとするのである。また、宗教と科学の間における対話も進めていこうとしている。」(瓜生津隆真・初代会長「宗教倫理学会設立の意義」『宗教と倫理』第1号、2001年11月)
 (1) 宗教に関連する倫理的課題を幅広く考察し、その成果を共有する。
 (2) 異なる宗教的立場に立つ者同士が誠実に対話を積み重ねていく場を提供する。
 (3) 諸宗教間の対話のみならず、自然科学の諸分野との学際的な対話を積極的に進める。
 (4) 現代の社会状況の中で、両性の平等や、性のありかたを正面から見据えていく。
 (5) 社会に潜在する倫理的関心事に注意を払い、本学会で得られた学問的成果を社会に還元する。
 (6) 国際社会に対して適切な情報発信ができるよう必要な措置を講じていく。  

 研究プロジェクトとそのテーマ
 環境倫理や生命倫理など、現代世界の諸問題をめぐって、宗教の枠を超えて討議、検討している。(毎月1回の研究会、夏期一泊研修会、公開講演会)
  2001年度テーマ「エコロジーと宗教」
  2002年度テーマ「コスモスとしての身体―エコロジーと宗教―」
  2003年度テーマ「生命と宗教―生命倫理からの問いかけ―」
  2004年度テーマ「生命と宗教―東洋的視点から見た生命倫理」
  2005年度テーマ「変化する世界における宗教―相克と調和」
  2006年度テーマ「変化する世界における宗教―相克と調和」
 2001年度の研究プロジェクトでは、エコロジーと宗教の関わりの中でも、とくに「自然」に注目しながら、検討を行なった。2002年度には、その研究成果を踏まえて、「身体」へと研究の視点を転換し、宗教や科学のパースペクティヴから、身体をミクロな生命現象とマクロな地球環境を媒介する「コスモス」(世界・宇宙)としてとらえ、現代の環境問題へアプローチをおこなった。
 また2003年度は、エコロジーと宗教の関わりに関する2年間の研究成果を踏まえて、環境問題と宗教の関わりから生命倫理と宗教の関わりへ研究プロジェクト・テーマをずらして検討を行なった。とくに2004年度には、現代世界における宗教的な生命観と科学的な生命観の接点が、東洋的視点から探究された。
 さらに2005年度と2006年度には、それまで蓄積された研究成果を踏まえて、現代世界と宗教のあいだに見られる「相克と調和」に焦点を当てながら、現代世界における宗教のあり方が探究された。目まぐるしく変化する世界において、現代の科学によって提示される知の枠組みや現代社会の諸問題が、宗教とどのように関係しているのか、また、それらの問題との関わりの中で、宗教間や宗教内にどのような相克や調和が見られるのか、などの論点をめぐって探究を行なった。

 このように、宗教倫理学会の研究プロジェクトでは、現代世界に生きる私たちが共有する深刻な課題を「共通の課題」、あるいは「共通の場」として、それぞれの宗教的な意味世界の地平から、または宗教の違いを超えた研究者の学問的な立場から、掘り下げた討議を積み重ねてきた。それは従来からの欧米型の宗教間対話モデルとは違って、新たな対話モデルであると言えるだろう。

4)むすび

 現代の多元的な意味世界において、宗教的寛容性と公共性を内包するような宗教倫理を「実践知」としてばかりでなく、それを「理論知」としても涵養していくうえで、宗教に関する知識教育が大切であることは言うまでもない。したがって、宗教間対話や宗教と科学の対話は不可欠であろう。その意味では、宗教倫理学会の研究プロジェクトのように、さまざまな宗教的な意味世界の地平から、あるいは学問研究の地平から、現代の多元的世界における諸宗教のあり方について討議し、宗教間の相互理解を深め、また、宗教と科学の対話を促すような「共通の場」の重要性が、これまで以上に認識されなければならないであろう。

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公開討論 提題1

宗教的多元性の諸問題
─東アジアのキリスト教の比較研究─

                                  芦名定道(京都大学)

1)COE研究会を振り返って

 わたくしは、まずこれまでのCOE研究会(23研究班)における共同研究を振り返り、また、先ほどの澤井先生の基調講演との関連も明らかにしつつ、今回のシンポジウムの意図と問題意識を明確化し、その上で、わたくし自身の立場から、若干の議論を行ってみたいと思います。

 (1)本研究会の目的
 本研究会(23研究班)の共同研究は、当初次のような問題意識と目的で始められた。
 「現代世界におけるグローバル化の進展は、アメリカの政治軍事力を背景にして、アメリカ的価値観をスタンダードとする文化的運動を引き起こしている。そのなかで地域固有の「ローカル文化」と世界的規模をもつ「普遍文化」との表面上の相克は激化しているように見える。人種、民族、性、宗教といったカテゴリーが歴史的につくりあげてきた人間集団の実体化と相互対立が、21世紀の現代世界の一つの特質となっている。また国民国家の成立によって均質化されたはずの国民社会内部においても、その支配的規範から逸脱してみずからをマイノリティとして積極的に差異化していく下位集団が続出している。
 本研究は、こうした異なった価値意識や社会規範、行動規則などをもつカテゴリーに属する人々同士が、日常的実践のなかでいかに、世界観を競合させながら折り合いをつけていくかという社会過程に注目する。そして寛容性をキーワードにして、異なったシステムとそれにもとづく実践が、現実社会のなかでいかにして再編成され社会秩序を生成していくかについて、実証的な研究を行っていく予定である。
 具体的には、現代日本社会内部で逸脱者と見なされる人々に対するマジョリティの側の対応の仕方を調査して、社会の寛容性の度合いを実証的に分析する共同調査や、世界宗教としてのキリスト教が、欧米を中心とする近代化の文化要素として韓国やアフリカ社会に浸透して行く過程で、先行して定着していた諸要素とのあいだでどのような軋轢を生み、それがどのように再編成されていったのかについて解明しようとする共同調査などが計画されている。」(21世紀COEプログラムのWebより)

 (2)研究目的の具体化
 以上の研究目的は、次のような課題として具体化された。
 1.多元性に伴う様々な問題状況に即した「寛容」のあり方(寛容性の社会的生成プロセス)を、実証的に捉え、多元的世界における寛容論の構築を試みる。
 2.理論的アプローチと実証的フィールドワークとの有機的な統合を試みる。つまり、宗教学的思想的研究方法と社会学的研究方法との双方を視野に入れつつ共同研究を進め、それを通して、多元的人文学の具体化をめざす。
 3.「宗教」「東アジア」「公共性」という観点から研究の集約を行う。

 (3)研究の実施状況 研究会の活動としては、隔月の全体研究会とそれと並行した行われたサブ研究会(若手による「宗教的寛容研究会」)、また多様なフィールド調査を含んでいるが、大きく次のようなステップで進められた。
 1.第一ステップ(2002、03年度):参加メンバーが各自の問題関心に即して、現代の多元的状況下における寛容性について、理論的あるいは実証的な視点から研究発表を行い、問題の広範な広がりを確認する共に、共同研究の具体的な方向性を決定する作業を行った。
 2.第二ステップ(2004、05年度):多元的世界における寛容性というテーマに対して具体的に共同研究という形でアプローチするために、問題を、「宗教」「東アジア」「公共性」という仕方で絞り込み、研究発表に基づきに討論を行った。また、東アジアの宗教的多元性に関連したフィールド調査を集中的に実施した。
 3.第三ステップ(2006年度):国際シンポジウムと報告書出版という形で研究会活動を集約する。

 (4)本日のシンポジウムの問題へ 本研究会においては、これまで、日本、韓国、中国で国際会議(シンポジウム、ワークショップ、セミナー)を実施し、また本年度中に報告書の出版を予定しているが、研究会の当初の目的については、東アジアの宗教的多元性における寛容性(宗教的寛容、宗教間対話)を焦点として、ある程度まで達成することができたと思われる──とくに、若手研究者の育成や東アジアにおける研究者のネットワークの形成など───。しかし、達成された研究成果といっても、一つの完結した理論形成がなされたわけではなく、むしろ研究会メンバー各自にとっては、今後の研究にとって多くの手がかりを与えられたと言うべきかもしれない。本シンポジウムでは、これまでの研究会での議論をふまえつつも、今後、いかなる方向へ研究を展開すべきかについて展望し、これからも様々な仕方で行われるであろう共同研究の基礎を確認したいと考えている。なお、研究会においてこれまで取り上げられた多様な問題から、このシンポジウムでは、東アジア、多元性と寛容、宗教といった問題領域に議論の中心を置くことにしたい。
 わたくしに続いて、三人のパネラーの方々にはそれぞれの研究のフィールドとテーマから提題をいただくことになっているが、わたくしも、与えられた残りの時間の範囲で、自分の視点から提題を行うことにしたい。

2)宗教的多元性の諸問題

 わたくしは、これまで近現代のキリスト教思想を主なる研究領域としてきたが、近年、キリスト教思想においても、宗教的多元性にめぐり活発な議論が行われてきている(芦名、1994)。それは、現代の宗教的多元性の状況が単なる過渡的な問題ではなく、むしろキリスト教思想の本質に関わる問題であること、また多元性と様々にリンクした対立と相克の現実に対処するには、宗教間対話などによる宗教間の相互理解・連帯・寛容性が不可欠であることなどが自覚されてきているからに他ならない。実際、そのために多くの努力がなされてきている──宗教の神学、エキュメニズム──。しかし、宗教間対話の実践においても、またその思想的基礎の解明においても、議論はあまりにも不十分な段階にとどまっており、その点で、キリスト教思想研究は、現在袋小路に陥っていると言わざるを得ない。
 実際、現代の宗教研究においては、「対話」に対する厳しい批判が少なくない。たとえば、藤原聖子は、日本宗教学会学会誌の「特集:近代・ポスト近代と宗教的多元性」への寄稿論文「空転する「対話」メタファー」で次のように論じている。
 1.「宗教間対話論の一番の欠点は、解決すべき問題の認識とその対処法としての理論、つまり目的と手段がマッチしていない、という非常に基本的なところにある」(藤原、2001、127頁)。つまり、宗教間対話の必要性について、しばしば「宗教対立・紛争の解消に貢献する」(目的)ことが主張されるものの、「学び合いとしての対話実践」という仕方での宗教間対話(手段)はその目的の実現に直結するものではない。
 2.「宗教者の中には対話をすること自体に価値を置かない者がいて、そのような他者の存在が、宗教間対話論では最初に取り組むべき問題なのである」(同書、132頁)。しかし、「対話を拒んだり、対話から構造的に排除される存在」との間における対話という問題に、宗教間対話論を含む一般対話論はほとんど取り組んでこなかった。ここに従来の対話論の限界があることは確かである。
 3.「『対話』の比喩の問題は、対話主体の双方が、最初から同等の位置にあり、同様に働きかけを相互に行うという想定にある。この前提は誤りであるし、なおかつ『対話』の言葉は宗教学の領域を回復するにはあまりに脆弱なスローガンであると筆者は考えるのである」(同書、136頁)。藤原は、「宗教学では『対話』よりも『批判』としての比較を行い、それによりただ地域研究の成果や批判派の議論を受け売りするのではなく、それらと刺激的な関係を築くという道」(同書、139頁)を提案している。

3)東アジア・キリスト教の比較研究

 以上の問題状況に対して、ここでわたくしが提案したいのは、具体的な場にもどって、いわば現場から議論を組み立て直すことである。つまり、宗教間対話一般に関わる理論構築に向かう前に、宗教的多元性が個々の宗教また社会においていかなる仕方で問題化しているのか、そこからどんな取り組みが行われつつあるのか、を実証的に検討することである(芦名、2007)。わたくしの場合は、このことのために、東アジアのキリスト教の比較研究という視点から議論を行ってみたい。ポイントは以下の通りである。  1.東アジア・キリスト教の宗教状況と近代化(東アジアの共通状況)
 2.民族主義との関わりから見た、日本、韓国、中国におけるキリスト教の多様性
 3.キリスト教は民族主義といかなる関わりを構築しうるか。民族主義との断絶か、民族主義への同化か、あるいは……。
 4.寛容の場としての公共性(齋藤、2000)と東アジアにおける宗教間対話の意義。

4)むすび

 宗教的多元性が提起する問題をキリスト教思想研究において取り組む場合に、共同研究あるいは研究者のネットワークが重要な意味を持ってくる──もちろん、研究において最終的に問われるにはそれぞれの研究者の力量ではあるが──。というのも、多元性が含む諸問題は多様かつ多面的であり、個々の研究者がそれぞれの立場からその全貌を視野に入れることはきわめて困難だからである。本研究会が、その共同研究の場としてそれほど機能できたかについてはここに出席の方々の評価を待つことにして、本研究会はこれから試みられるべき共同研究の一つの始まりであると言うことができるのではないだろうか。わたくし個人としては、先に見た東アジアにおける宗教的多元性の問題を具体的な諸宗教の実態に即しつつ検討し、また民族主義あるいは近代化の文脈を視野に入れた新たな共同研究を今後も試みて行きたいと考えている。

文献

 芦名定道 (1994)『ティリッヒと現代宗教論』北樹出版。
 (2007)「東アジア世界における宗教的寛容と公共性」、紀平英作編『対話と寛容の知を求めて──人文学の未来』(下巻 『新たな人類知を求めて』)京都大学学術出版会(刊行予定)。
 小坂井敏晶(2002)『民族という虚構』東京大学出版会。
 齋藤純一(2000)『公共性』岩波書店。
 高橋哲哉(2004)『教育と国家』講談社現代新書。
 藤原聖子(2001)「空転する「対話」メタファー」、『宗教研究 特集:近代・ポスト近代と宗教的多元性』(日本宗教学会)第75巻−329、123-148頁。





公開討論 提題2

日本における多民族共生のゆくえ
―民族文化祭の視点から―

                                  飯田剛史(富山大学)
 近年、日本では「他民族・多文化共生」という言葉が聞かれるようになってきた。総務省では2006年に「多文化共生推進プログラム」を発表し、地方自治体もこれと前後して、「多文化共生」を政策課題に挙げつつある。これは外国人労働者の増加と定住化の現実にたいして、なんらかの政策を打ち出す必要が生じて来ているからである。80年代後半頃は「国際化」の語がさかんに使われてきたが、「多文化共生」はこれに替わる政策用語になりつつある。また「多文化共生」は行政ばかりでなく、定住外国人と日本人住民との関係とコミュニケーションをはかる市民運動の課題を指す言葉としても使われてきた。
 90年代以降に数多く展開した多くの「民族文化祭」では、多民族・多文化共生を目標として掲げている。ここで「民族文化祭」とは少数民族集団の固有文化を公共の場で祝祭のかたち表現する活動としておこう。
 日本での民族文化祭は、大阪で1983年に開始された「生野民族文化祭」が最初であろう。 これは生野区に住む在日コリアン2世が中心になって韓国の「農楽」を中心に民族文化を発表し、在日社会内部の南北分断の乗り越えを訴える祭りであった。最初地域社会からは強い抵抗があったが次第に受け入れられていった。1985年には「ワンコリア・フェスティバル」が始められた。これは、伝統文化にこだわらず、様々なジャンルの音楽・パフーマンスを在日と友人の日本人ミュージシャンが野外ステージで表現するものである。またその名のとおり朝鮮半島の統一を訴えようとするものである。90年には「四天王寺ワッソ」が始まった。これは古代朝鮮から多くの人々が高い文化を持って日本に渡来したことを大規模なパレードで表現するものである。
 90年以降は、「○○マダン」、「○○国際交流フェスティバル」などと名づけけられた祭りが、関西を中心に約30地域で展開している。それらは、「農楽」(あるいはプンムル)を演目の中心とする点、公立小・中学校の校庭で行われるなど「生野民族文化祭」を原型としそれに触発されたものであるが、相違点は、生野では、韓国ないし朝鮮籍者のみが参加する祭りであったのに対し、後続のものは、日本人も多く運営・出演に参加しており、さらに近年の祭りには、ブラジル、アルゼンティン、タイ、フィリピン、中国人などのニューカマーの参加が見られる点である。2004年に始められた「おうみ多文化交流フェスティバル」は、日本ですでに地歩を得た在日コリアンがニューカマーに手を差し伸べて祭りを創るという主旨を表明している。「四天王寺ワッソ」は2000年にスポンサーの在日金融機関が経営破たんして中止となったが、在阪の日本企業が中心となって新しい大阪の祭りとして復活した。
 このように在日コリアンの民族的アイデンティティ表明、南北統一を掲げるものから、地域の市民団体による多民族交流をめざすもの、行政主導の祭りまで、多様な民族文化祭りが展開している。これらの多くは地方自治体などの後援や助成金を受けている。 廃止になったり危機に陥った民族祭りもある。生野民族文化祭は2002年に第20回をもって終了した。「みのおセッパラム」は箕面市が1991年に主催して始めた祭りであるが2001年に中止となった。「高槻国際交流大野遊祭」は、1987年に同市の積極的な後援と資金助成で始められたが2002年には、市長交替にともなう方針変更によって後援・助成が打ち切られた。市側は在日コリアン団体への支援は、「多文化共生」の主旨に合わないと説明しているようである。この祭りは、同市の政策変化への批判を行いながら続行されている。
 地方自治体がどこまで民族文化祭の後援、助成を続けるかは、「多文化共生」をどのように理解し施策化していくかによって異なってくる可能性がある。つまり「多文化共生」の名の下に、民族文化祭が一層振興されたり、逆に否定される可能性もあることになる。地域住民はこれらの祭りを地域の新しいユニークな祭りとして受け入れているように見える。しかし無関心ないし抵抗を感じている住民も潜在的には存在していると考えられる。

 さて20世紀後半、第二次大戦後の半世紀は「寛容化」の時代であったといえる。米、欧では、人種差別、民族差別は否定されるべきこととされ、日本でも在日コリアンへの差別・偏見は徐々に緩和されてきた。世界の諸宗教・宗派も独尊排他の態度を変更し、宗教間の対話や相互理解を望ましい方向として表明するようになってきた。しかし21世紀に入って、これとは逆の大きな流れが生じてきている。米欧ではイスラム圏とその出身者への不寛容・偏見が増大し、日本ではナショナリズムが、中国・韓国・北朝鮮の反日運動を反響増幅して拡大し始めている。偉大な思想家によって優れた寛容思想が生み出され、それに人々が影響されて社会の寛容性が徐々に高まっていくと考えることはできない。むしろここ半世紀の寛容性の進展は歴史的・政治的なきっかけで一挙に無にされてしまう可能性さえあることを認識しなければならないだろう。今後は、不寛容化の流れのなかでの寛容の保持・進展という一層困難な問題に取り組まなければならないと思われる。

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公開討論 提題3

社会的寛容性と歴史認識
─中国と日本の関係から─

                                  楊 聡(上海第二工業大学助教授)

はじめに

 現代世界は、一元化と多元化が同時に、かつ急激に生起している、今まで人類社会が経験したことのない時代を迎えている。一元化というのは、政治経済制度や価値観、ライフスタイルなどが標準化されつつあるということであり、グローバリゼーションという名で表現される現象でもある。他方、多元化というのは、こうした一元化の波に包摂されてきたローカルな文化や社会が、差異の承認を求めて自己提示をする現象を指す。
 このように急激に一元化する力と、それに抗して多元化を主張する力とが葛藤するとき、寛容性という問題意識の重要性が焦点化されるのである。互いに自己の「正しさ」と「善さ」を主張しあう異なる集団や組織は、いかにしてその現実と向きあうべきなのだろうか。本報告は、中国と日本という、相異なる二つの国民国家に所属する人々が、この問題に対してどのような可能性を追求することができるのかについて考察するための、一つの試論である。

1)二つの国家・国民の歴史認識と寛容性

 寛容性について、東アジアのコンテキストで議論しようとするとき、避けて通れないポイントがある。それは、かつての侵略戦争と植民地支配の歴史である。それは近年の日本の首相による靖国神社参拝をめぐる中国と韓国の国民の反応、あるいは、昨年夏に上海で起こった大規模な反日暴動のことを想起すれば容易に理解できる。
 たとえ解釈の多様性を承認するにしても、日本が中国に対して膨大な軍隊を派遣し多くの日本人市民を植民者として送り込んだ事実は誰も否定しようのない歴史である。こうした過去の加害と被害の歴史の問題は、現在と未来の関係を構築する上で、決定的に重要である。
 こうした問題の当不当を裁き、過ちを犯した側に賠償補償を求める動きは第二次大戦後の国際秩序の再建を導くものであった。しかしながら寛容性という問題設定は、このような責任者処罰から補償賠償へという道筋とは明らかに異なる地平を切り開くものであった。 歴史問題に対するこの二つの対応策についてかんたんにふれておくことにしよう。まずは補償賠償を求める動きについてである。

戦争被害の記憶
 1937年7月から1945年における中日戦争で、侵略された側の中国は巨大な損失をこうむった。1937年の比率で計算すると、中国の直接経済損失は1000億ドルあまり、間接損失は5000億ドルあまりにのぼる。8年の戦争において、中国人の犠牲者数は3500万人になる。日本でも犠牲者数が議論になっている南京大虐殺(1937年12月)では、日本軍は30万の中国の平民と兵士を殺害したと言われている。日本が中国で行った戦時残虐行為は数多くあり、たとえば1941年1月の潘国峪虐殺事件(河北豊潤県潘国峪村)では、日本軍は1000人あまりの村民を殺害した。このほか浙江寧波、金華、湖南常徳などでは細菌戦も行った。当然、周知のように、黒龍江省では731細菌部隊の例もある。
 侵略を受けた国の苦痛の記憶は消えることはない。中国政府は南京などの虐殺事件発生の地や、瀋陽(1931年9月18日、瀋陽駐留の関東軍は南満鉄道を中国軍が爆破したという理由で中国軍宿営地に侵攻し、数日後には中国東北全域を占領した)、盧溝橋(1937年7月7日、宛平城外駐留の日本軍は、一日本兵の失踪を理由に城内の中国軍に侵攻し、このため中日全面戦争が開始された)などに記念館を建設している。近年この種の記念館は増加しつつある。
 1972年の中日国交回復の公報では、「中日両国政府の友好のため、中国政府は『日本国にたいする戦争賠償請求を棄却する』」といわれている。しかし1988年から、民間での賠償請求があらわれ、しだいに増加していっている。中国政府は始めのうちこの種の行動に懸念、つまり「中日友好の大局を妨げないか」とか、あるいは政府がコントロールできない非政府組織や政治的反対派をつくるのではないかという心配を抱いていた。民間での賠償請求が法律的にも道義的にも正当性をもつことから、中国政府は表立って禁止はせず、いわゆる「支持せず、励まさず、宣伝せず、干渉しない」という方針をとった。時をへて思想が解放されるにしたがい、現在では民間賠償請求の運動は政府からより寛容な扱いをうけるようになっている。すでに判決のでたものから現在進行中のもののうち、広く注目を集めた対日民間賠償請求の裁判には、花岡事件訴訟(2002年和解成立)、浙江義烏細菌戦訴訟、湖南常徳細菌戦訴訟、福岡労工訴訟、元「慰安婦」訴訟などがある。ただし日本の裁判所においてはこの種の訴訟にたいして、「個人は国家を起訴できない」あるいは「訴訟の時効がすでに過ぎている」との見方をもつことから、原告の訴訟の大多数は棄却されている。

寛容政策の意義
 戦時残虐行為に対する補償賠償を求める民間の動きとは別に、中国政府と共産党は、歴史的寛容性を組み込んだ独特の対処法を実践してきた。 その正式な立場は、以下の二点に概括できよう。第一には、日本の帝国主義による戦争犯罪を確かに認め、歴史の教訓を銘記しなければならない。第二に、ごく少数の戦争を発動した日本の軍国主義者と、多くの日本の人民を区別する。彼らもまた戦争の被害者であるということである。それゆえ、実際の問題への対応のしかたとしては、日本の支配層によって日本が軍国主義へと逆戻りすることにたいして警鐘を鳴らし続ける。同時に、戦争捕虜や戦争による残留孤児、残留婦人にたいする問題では、人道主義による寛容政策を実施する。 中日戦争の終結後、中国には1062名の日本の戦犯が留置された。これらの戦犯はソ連赤軍に捕虜とされ、1945年から1950年までシベリアで労役に服した。1950年に中国に引き渡され、戦勝国―中国の裁判を受けることになっていた。しかし、1954年に審理にはいる段階で、中国政府はそのうち約100名の佐官クラス以上の将校のみに裁判を行うことを決定した。裁判のまえには、かなり長期にわたって日本の戦犯の戦争犯罪にたいする調査・整理が行われ、またそれによって彼らへの教育が行われ、彼らが自らが犯した犯罪への認識を高めることを手助けした。このような手順のうえで、裁判が行われた。最終的には、自らの部隊を指揮して多くの中国民衆を殺害した戦犯にたいしても、もっとも長いものでわずか19年の有期懲役が下されたのみで処刑されたものは一人もいない。また刑期は1945年にソ連赤軍にとらえられた時点から計算されるため、裁判終了後、10年以内に、刑をいいわたされた日本人戦犯は、すべて釈放され、日本へ帰国している。戦争捕虜のうち佐官級の将校(あわせて1017名)は1956年に釈放され帰国した。

日本人の残留孤児、残留婦人、日本人公墓
 日本の敗戦後、さまざまな理由により日本軍に遺棄され、中国(主として東北地区)に残された残留孤児はおよそ5000人である。1972年の中日国交回復から現在までで、日本政府が日本人であるという身元を確認し、日本へと帰国したものが、そのうちの約2500名である。
 彼らの両親はさまざまな要因から中国へ渡っている。あるものは日本の軍人であり、あるものは開拓団のメンバーであり、また商いのために渡中した商人もいる。1945年のソ連赤軍の東北進攻のときに、それぞれの状況下で、たとえば父母の死亡や、逃避行上での離散、あるいは父母に捨てられたということのため、中国に残された。彼らは中国人の養父母にもらわれ、中国で成人し、家族をつくり仕事をもった。ここで指摘しておきたいのは、中国人養父母の多くは、当時、日本の侵略者による抑圧と迫害をうけ、日本の軍国主義に満腔の憎しみを抱いていた人々であるということである。
 1931年に日本が中国の東北地区と内蒙古地区を占領して以降、これらの地域へ渡った移民は150万人にのぼる。敗戦後、日本政府と関東軍は居留民の引揚げを行わず、そのため、多くの日本人女性は中国に残されたまま帰国する方法がなかった。のちに、日本政府は、中国の家庭に入ったときに13歳以上のものを「残留婦人」と呼び、彼女たちは自らの意思で中国に残ったものであるとした。そのため、彼女たちは日本へ帰る権利を剥奪されたのである。1993年になって、日本政府は、彼女たちもまた日本国民であると認め、そのなかの一部の人びとは日本へと帰国している。
 黒龍江省方正県には、世界にまたとない日本人の公墓がある。1962年(当時はちょうど中国が大自然災害にみまわれた困難な時期にあたる)、黒龍江省政府はとつぜん、方正県政府からの報告を受ける。それによると、当該県内に、数千の白骨が発見され、その多くは女性と子どものものである。この土地は、もとは日本ある開拓団のあった場所であり、調査の結果、日本の敗戦後、開拓団が方正県城に移動し、帰国の準備をしていたとき、餓えや病気などの原因によりその半数が死亡し、とりあえずこの地に埋められたものであることが判明した。このため黒龍江省政府は中央政府に報告をあげ、政府は、人道主義の立場から、人民元20万元を支給し、日本人公墓を建立した。方正県の政府関係者によれば、当時、これらの日本人の遺骸をどうするのかについて、中国政府内部でも大論争がまきおこり、最終的に周恩来首相が「寛容主義」にもとづく決断を下したといわれる。こうした寛容性についての考え方は、「病をなおして人を救う」ことを公式的人間観の根底に据えた毛沢東思想に由来するものだ。
 このように無辜の人民を殺傷し、人権を侵害してきた加害者に対してさえ、処罰、復讐という方法ではなく、新しい社会秩序と社会規範の創造を唱えて、赦し救うという寛容性原則を実践してきたのであった。しかしこれは、たんなる他者への赦しや忘却とは異なる。敵対的行為や意識を有する人々とのあいだに地つづきの連帯観念を想定したうえでの赦しと救いであった。したがって、異なる他者とのコミュニケーション回路を切断することなく、絶え間ない働きかけをおこない人間改造を志向しようとするのである。そのことはとりわけ「戦犯改造」のプロセスに如実に表れている。
 ここにおける寛容性は、異なる歴史認識を並列し容認するという寛容性はなく、互いの通交可能性(commensurability)を前提にして、とくに被害者と加害者を生み出す構造自体に対して批判し改変しようと働きかける実践と密接不可分のものなのであった。中国政府が、中日戦争後の日本に対して示した寛容性も、この文脈において理解されなければならない。

2)現代中国社会における多元化の現実と寛容性

 これまで歴史的認識と寛容性について議論してきたが、こうした寛容性という問題意識は、これからの現代中国社会を考えるうえでもきわめて有意義なものだ。
 中国社会は、現代世界のなかでももっとも急速かつダイナミックな変化を経験している。生産、消費の両面をとっても、グローバル経済における中国の地位は決定的に重要になっているし、こうした成長にあわせて価値観や社会観、生活スタイルの変化も急激に進行している。そのなかでも上海は、中国各地の農村から膨大な流入者を受け入れる巨大都市として、多様性(multiplicity)複数性(plurality)の極相をしめしているといってよい。このような多層化の進行のなかで社会的に周縁化された人々が出現し、彼らに対する社会的差別や抑圧が深刻な社会問題となりつつある。このような周縁化された人々に対する社会からの眼差しを考える際に、寛容性の問題が再びスポットライトをあびるようになったのである。そのことを論じる前に、まずは市場経済の導入によって上海社会が急速に多層化する過程をみておこう。

多元性の形成
 改革開放以前の中国は、利害の多元的な社会ではなかった。都市住民は、政府の公務員、事業単位(たとえば学校など)の工作人員、国有企業の従業員、集団所有制企業の従業員に区分された。農村住民は人民公社に集団的に組織されていた。都市と農村の区分を除けば、すべての人びとは、社会主義公有制の一員であり、その利害関係は同じであるかよく似ていた。人々の収入格差も大きくはなかった。ただし、都市住民と農民との格差はかなり大きく、今日、我々が当時を「二元社会」と呼ぶのは、この点をさしている。
 改革開放が引き起こした利害の多元化は、おおよそ次の三点から把握できる。第一には、市場経済の発展と多様な所有形態の構造が、異なった利害指向や要求と利害主体を生み出している。多様な所有形態がうみだす利害の矛盾・衝突は、基本的には、マルクス主義の伝統的な意味で階級闘争といってもよいレベルに達している。第二には、収入格差の急激な拡大が、深刻な貧富の差を招いている。異なる階級間の格差以外に、かつて同一階級や階層に属していた人びと、――たとえば、国家公務員と労働者、教師と労働者、在職の従業員と失業者、都市住民と外来の労働者(つまり農民工)とのあいだに、巨大な収入格差が生じている。これは、市場経済的な分配システムがつくりあげたものである。第三には、改革解放以前から存在してきた、伝統的な都市―農村の二元構造がうみだした格差である。農村人口が膨大になりすぎ、また改革政策の滞り(たとえば戸籍制度は長年非難されてきた)によって、大量の人びとが農村から流出してきたにもかかわらず(上海では、出稼ぎ者は580万人であり、上海の総人口の三分の一を占める)、彼らは都市戸籍をもってないため都市に定住することはできず、都市住民と同様の福祉やサービスを享受することもできない。中国の各都市では、一人当たり国民所得の政府計算からは出稼ぎ者は除外されている。中国では、現在、改革の方向についての理論的論争が行われている。中国では、所得格差を示すジニ係数が0.5を示しており、これは危険な数値とみなされている。社会的な不安の爆発を引きおこしかねないからだ。実際、現在の中国では、貧富の格差の拡大は、すでに全社会が注目する大問題となっている。

出稼ぎ者と都市住民の格差
 ひじょうに奇妙なことに、多くの識者はみな、都市住民と農村戸籍との区別をなくすべきであると考えているにもかかわらず、この区別が廃止されることはない。その原因はひじょうに簡単で、この差異差別のうえに、今日の成長が成り立っているからである。都市住民は多くの福祉を受けることができるが、出稼ぎ者はそれを受けることができない。この原因もまた単純で、各都市の政府は、人口の膨大な出稼ぎ者たちに都市住民と同じ福祉待遇を与えることを望まないか、あるいはその能力をもっていないのである。たとえば、上海のなかでも経済成長がめざましい浦東新区の曹路鎮の人口10万人のうち、その半分の5万人は外来の出稼ぎ者である。多くの都市の政府は、さまざまな手段で出稼ぎ者の都市への流入を規制しようとしている。そのためにうみだされた政策的な規制は多種多様であり、毎年次々と制定されるが大きな効力をもつことはない。
 都市住民と農村戸籍都市居住者(農民工)とのあいだの差別は、おおよそ以下のようにまとめられる。第一は、所得である。多くの研究が示しているように、農民工の収入は、都市住民を大きく下回っている。しかも、中国経済の急速な成長により、都市住民の所得は国民経済の成長とほぼ同率で増大しているのにたいして、農民工の所得は10年以上のあいだほぼ変化がない。筆者の調査を例にとると、10年前には一般的な肉体労働に従事する農民工の月収は600−1000元(1元は約15円)であったが、これは現在でもほとんど変わらない。同時期、国家公務員の給与は、大幅に値上がりした。10年前、大学教師の給与(上海地区の講師を例にすると)は1500元であったが、現在では4500−5000元である。第二には、住宅に関してである。都市住民は、当然ながら、自分の住居をもっている。その大部分は、以前の単位による福利としての住宅分配によるもので、住宅制度の改革のさいに、低価格で購入したものである。住宅価格が急激に上昇している今日(たとえば上海市中区の住宅価格は、通常1平米あたり13000−20000元、郊外では5000−10000元のあいだである)、外来の農民工には住居を購入する経済力はない。第三には、子どもの教育についてである。都市戸籍がないため、出稼ぎ者の子どもは都市の小学校や中学に入学できない。当然、もし彼らが望むのであれば、一定の賛助費を納めれば、入学が認められることになっている。そこで、現在では、外来の出稼ぎ者たちが開いた、外来人口の子女のための学校(ふつうは都市郊外にある)がつくられている。第四には、各種の保険である。正式に採用された従業員にたいしては、給与の支払い以外に、政府の労働部門の要求にもとづき、各単位では人びとに代わって、公共積立金、養老保険金、失業救済金および医療保険金の「四金」を納めている。しかし雇用人である農民工にたいしては、政府はこのような要求をしていない。そこで、たとえ同じ単位で働いていたとしても、もしくは全く同じ仕事をしていたとしてさえ、戸籍の違いによって、給与所得と「四金」の両方ともに格差が存在している。

農民工の待遇―いくつかの事例から
 上海第二工業大学は上海市浦東新区の曹路鎮にある。当校の学生数は9000名余、教師と従業員は1050名である。各学校や機関の従業員は、基本的には、すべて正規雇用であるため、ここでは、おもに当校の後方勤務(事務雑務のサービス部門のこと)サービス会社での外来農民工の雇用状況をみてみたい。
 当校の後方勤務サービス会社が所轄するのは、生活センター、飲食センター、宿舎管理センター、物業センター、物資センター、開発部、衛生所、普陀校区(普陀校区の後方勤務サービス部)である。後方勤務サービス会社の正式な従業員は164名、外来雇用者は420名である。
 募集ルートはおよそ2種類ある。まずは当地での募集である。第二工業大学はもともと浦西にあり、2001年に現在の場所に500ムーの土地を徴集、新たな校区を建設し、2002年に移転した。用地の徴集によって土地を失った農民をできる限り雇用し、生計をたててやるようにという政府の要求にもとづき、曹路鎮政府所轄の職業紹介所は、第二工業大学にたいして農民の就業を斡旋した。これにかんして、第二工業大学と曹路鎮政府とのあいだに合意書が交わされている。第二工業大学はその必要に応じて、コックを何名、清掃人を何名、というように曹路鎮職業紹介所に具体的な希望をだし、曹路鎮職業紹介所では、1対3、1対5などの比率で、第二工業大学に名簿をわたして選考させ、確定する。このほかに、城鎮戸籍をもつ失業者がいる。たとえば、2001年から浦西楊浦区の立ち退きによって、曹路鎮には多くの家族が移転してきている。これらの人びとにたいしても、鎮政府は仕事の紹介をすることになっている。さらに、この土地の戸籍ではない人びとがいる。たとえば、四川省の戸籍をもつAさんは、もともとここに働きにきており、のちにこの土地の男性と結婚した。しかし、戸籍は四川の戸籍のままであり、曹路鎮政府によって第二工業大学で仕事を紹介された。次は、個人の紹介によるものである。他から上海へ働きにきた労働者は、一般にはこのルートによって仕事を見つけるのである。たとえば黒竜江省の戸籍をもつコックのBさんは、自分の相婿(妻の姉妹の夫)に食堂の仕事を紹介した。またあるミネラルウォーター配達会社から当校に派遣されてきていたCさんは、四川戸籍の民工だが、当校の従業員たちと親しくなるにしたがい、自分の妻を当校の食堂に紹介している。
 政府の規定によれば、外来の出稼ぎ者(流動人口)、当地で土地を失った農民、さらに都市戸籍をもつ失業者では、それぞれ受けられる待遇が異なっている。
 土地を失った農民、いわゆる失地農民は、一般に、鎮の職業紹介所をとおして雇用者を紹介され(たとえどんな単位でも)、平均して毎月80元の人民元を鎮政府からうけとっている。これは就業補助金と呼ばれる。この種の補助金は、実質的には、政府が生計を失ったこれらの人びとにたいして行う一種の補償であるとみなされている。
 上海の都市戸籍を有する者(上海城鎮戸籍)は、たとえ失業者であっても、雇用単位は三金、つまり失業救済金、養老保険金、医療保険金を代納しなければならない。当然、このような状況下では、雇用単位の負担は増加する。しかし、現在の中国では、失業者の状況はさまざまで、あるときはもとの単位(もしもとの単位がすでに倒産していれば、もとの単位の上の機関や政府部門)が養老保険金を代納し、雇用単位は失業救済金と医療保険金のみを代納する。またある場合は、もとの単位が医療保険金を代納し、雇用単位が養老保険金と失業救済金を代納していることもある。さらにもう一種類の失業者があり、彼らはもとの単位を離れるときにすでに勤続年数を買いとっている。つまり、単位は彼に一度に数万元(3万元から8万元のあいだで一定ではない)を支払っており、この種の人びとを雇用するさいにはどんな費用を支払う必要もない。第二工業大学の門衛はみな、この種の費用支払いのいらない失業者である。
 第二工業大学の建設には、曹路鎮の土地を徴集しているため、上海市の政策にしたって、第二工業大学が労働者を雇用するときには、当校の建設により土地を失った農民を優先的に雇用しなければならない。同時に、第二工業大学と曹路鎮政府は合意書を交わしており、当校は曹路鎮政府の開いている労働力紹介所から一貫して労働者を徴集している。これらの上海の農村戸籍を有する人びとに対してはどのような政策があるのだろうか。上海市の浦東新区政府は、失地農民にたいして出稼ぎを奨励する政策を採っている。そこで、それぞれの仕事をもつ農民にたいして、鎮政府は毎月80元を補助し、就業補助金と称している。彼らは農村戸籍のため、各種の保険金を支払う必要はない。
 出稼ぎ者(外来人口)は、また別の状況におかれている。上海政府の規定により、各単位は外来の労働力(つまり流動する労働者)にたいして「総合保険金」を代納する。この種の総合保険金は、実際には「四金」や「三金」を総合したものではなく、おもに医療保険金である。つまり外来の労働者は、病気や怪我のさいに、この保険金をつかって医療費を支払うことができるというものである。彼らが雇用単位をやめて農村に帰ったり、他の土地へ働きにいったり、あるいはその土地の別の単位で働くときには、この未使用の総合保険金は現金にしてうけとることができる。
 曹路鎮では、外来人口(出稼ぎ者)と現地の人間との結婚がかなり見られる。中国の現行の戸籍制度では、上海人と結婚したほかの土地の者は、結婚を理由に上海戸籍を取得することはできない。第二工業大学でも、Aさん(女性、四川人)は、12年前に上海にやってきて、7年前に曹路鎮の住民と結婚しているが、結婚後も戸籍は変わっていない。曹路鎮政府労務紹介所で第二工業大学を紹介され、働いている。彼女は曹路鎮政府の紹介できたため、第二工業大学では彼女にたいして総合保険金の代納を負担せず、曹路鎮政府がそれを負担している。
 それでは、以上のような人びとの給料はどの程度であろうか。それぞれの時期によって、各地の政府では法定の最低賃金基準を定めており、各単位ではそれを遵守しなければならない。現在、上海市政府が定める法定最低賃金は750元である。それゆえ、第二工業大学で清掃、物業管理、保安、食堂の雑用等に従事する仕事では、すべて750元である。さらに、各人の状況におうじて、それぞれの種類の、金額の異なる保険金を得ることができる。
 等級のあるコックや、電気工(弱電工、強電工を含めて)、ボイラー工など、技術のいる仕事や資格証書の必要な仕事では、前述のような単純労働の仕事とは状況が大きく異なる。彼らの給与は、毎月1100元ほどになり、さらにこれらの人びとが都市の失業者であれば、大学は「三金」を代納し、出稼ぎ者であれば、総合保険金を代納する。このようにして、彼らの実際の収入は、単純労働者を大きく上回ることになる。

 現代中国社会における弱者の出現と寛容性
 中国は現在、市場経済にむけた転換期にあり、それぞれの単位(第二工業大学のような国家事業単位をふくめて)では、できるだけ支出を減らそうとしている。国家の法律と制度、政策に反しない範囲で、労働者を多層化したうえで区別して活用し、各種の保険金を支払わずにすむなら、できるかぎり支払わないようにするような雇用形態が導入されている。この結果、もっとも大きな被害を受けるのは、農村から都市へとでてきた出稼ぎ者(流動人口)である。なぜなら、政府の政策にしたがえば、雇用単位は彼らに総合保険金を支払うだけでよい、もっとも安上がりの労働力ということになるからである。いっぽうで都市住民は、雇用される以前に、すでに各種の福祉、たとえば養老保険金や医療保険金をといったものを受けている。さらに農村出身の出稼ぎ者の教育レベルは一般に低いため、彼らが給料の高い仕事につく可能性は著しく低くなっている。
 このように今日の中国、とりわけ上海のような大都市社会においては、社会的に周縁化された「弱者」が構造的に作り上げられている。そして労働市場における階層化は、かつての同一労働同一賃金とは異なる、選別化され差別化された賃金システムをもたらし、階級間の矛盾と階層間の著しい格差を生み出しているのである。こうした構造的弱者の出現は、社会のなかに彼らに対する意識・眼差しをつくり出すことになる。異なる階級階層間の対立や葛藤は、紛争や憎悪の温床にもなり、社会の不安定要因としても機能する。
 現在、中国政府や上海市政府は、こうした状況に対して、この種の格差を縮める措置をとっている。しかし、財政難のためか、優先順位をまずは都市住民の福祉においているためか、目下のところ農民工に対する効果的な施策はなされていない。
 しかしながら、調和のとれた社会建設という現在の中国政府の方針実現のためにも、農民工に対する経済的制度的対処の見直しだけではなく、彼らに対する社会的意識をも変化させていくことが重要である。現在みられる雇用と職場における弱者への差別は、こうした弱者への社会的意識の反映でもある。都市住民の排除的意識をいかにしてより寛容的なものに変容させていくかがポイントとなっている。上海のような異質性と多層性を増大させている社会において、寛容性の意識の涵養こそが求められているのである。

おわりに

 グローバル化が進行し世界が一元化されつつある今日、一元化のなかで、周縁化されたり排除されたりする「構造的弱者」の問題はきわめて重要な課題となりつつある。それに対して、複数性多様性を「差異の承認」という形で処理して解決しようという試みもなされている。たとえばマルチカルチャリズムの実践はその一例だろう。しかし「差異の承認」が無制限無条件になされるなら、ヨーロッパにおけるウルトラ人種主義者のように、「白人文化の優越」を唱えて暴力的に移民を排斥する運動を拒絶することはできない。
 本稿は、これに関して、中国と日本の「不幸な過去」を事例にしながら「地つづきの歴史認識」を相互に共有するこことが、差異の承認の前提であり、「不幸」を生み出した「構造」を見据えそれを改変する働きかけの協同のなかにこそ、相互の寛容性が意味を持ってくることを述べた。それは、「あらゆる他者性を承認する」寛容性とは明確に一線を画したものであった。
 さらに本稿では、現代中国の大都市で生起している新たな矛盾と葛藤を紹介しながら、異質性の増大と市場メカニズムによる弱者排除周縁化に対しても、制度的改善だけではなく、共に社会参画していくという地つづき観をもとにした寛容性の社会意識が重要であることを示した。
 激動が予想される東アジアの社会的文脈において、こうした種類の寛容性の意義はますます高くなっていくであろうし、これを対象とした中日韓の共同研究は今後ますます発展させていく必要があるだろう。



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公開討論 提題4

現代韓国における宗教的多元性と寛容
─仏教とキリスト教の対話─

                                  金文吉(韓国釜山外国語大学)

1)はじめに

 東北アジアにおいて、韓国は地理的な状況より早くから韓民族という、独特な宗教を持った国家として認識されてきた。仏教は、中国から朝鮮半島に伝わり、統一新羅時代には、隣接国家(中国・日本)とは異なる特徴を持った「護国仏教」に成長し、日本まで大きな影響を与えた。
 韓国においては、古代以来、宗教と国家の間、または民族の間で寛容の意識が形成されてきた。しかし、欧米宗教である、キリスト教が伝来されたことにより、非寛容の問題が生じてきた。今回のシンポジウムでは、韓国宗教の現状と特質、そして宗教間の寛容、または公共性について論じる。

2)韓国宗教の信徒数と地域的特質

 韓国宗教の現状から言えば、人口の半分以上が何らかの信仰を持っている。この点から、韓民族は歴史的に宗教志向的な生活をおくってきたと言えるかもしれない。古代以来、自然崇拝、巫俗信仰など多様な宗教行為を人間生活の根本とすることによって、国家体制を整えた後は、仏教を筆頭に、儒教、道教、キリスト教など、外来宗教を受け入れる一方で、天道教、大?教などが、韓国固有の独創的な宗教として発展し、民族文化発展の精神的支柱になってきた。しかし、日韓併合以降、日本の仏教やキリスト教、そして各新宗教が韓国に入ることにより、国家的なイデオロギーと衝突が起こり、宗教間の葛藤を招いた。
 韓国宗教の最大の特徴は、文化的背景を異にする宗教が共存する多宗教社会という点にある。これは、調和と相互寛容の協調的関係を重視する思想的伝統と関係している。韓国社会は、元来、外来宗教を受容する包容力と寛容性があったため、宗教多元主義という文化的特質を持つようになった。確かに、宗教的多元性の状況は、絶対的価値体制としての宗教が複数共存していることを指す場合、そこには相互葛藤と摩擦の危険性が相対的に大きいと考えられる。現代の韓国社会は、このような危険性を解消しながら、相互理解と包容性を発揮し、成熟した開放社会を形成するという難しい時代的課題に直面しているのである。
 韓国の宗教状況は伝統的な制度宗教と民族宗教、そして近代化以降入ってきた外来宗教(日本を含む)を含む新宗教が主軸になっており、民衆の信仰的欲求と結びついた民間信仰が基層になっている。韓国の宗教界には2002年末現在で、総数324の宗教教団があり、寺刹、教会などが90,740箇所、これに関わる聖職者が、499,200余名にものぼる。宗教人口は、1995年の人口調査を見れば、22,590,000余名で、総人口の50.7%にのぼる。これは、10年前より500万人、比率では8.2%増加した。総人口に対して、仏教徒が23.2%、プロテスタントが19.7%、カトリックが6.6%であり、これら三大宗教が宗教人口の97.5%を占めている。(1) 1960年代の産業化以降、韓国の宗教は飛躍的に発展し、仏教も飛躍的に成長したが、韓国宗教の成長にとって主な役割を果たしたのは、プロテスタントとカトリックであった。全体的に、仏教、プロテスタント、カトリックは10年間増加してきたが、儒教、天道教、大?教(檀君教)、日本宗教は減少傾向にある。
 まず、仏教には、伝統仏教を受け継いだ曹溪宗と太古宗を筆頭に105の宗派がある。この中で、半数以上の宗派は、1980年以降形成された。曹溪宗は比丘僧団であり、韓国仏教の最大の宗派であり、そのほか待妻僧を主にした太古宗、また日本敗戦(1945年8月15日)以降に形成された、天台宗、真閣宗、法華宗などが存在する。仏教の寺院数は22,670箇所であり、この内919の寺院は「伝統寺刹保存法」の指定を受けている。僧侶は、41,360余名で、一つの寺院に平均2名ぐらい配置されている。仏教徒は、1995年の人口調査によれば、10,320,000余名で、総人口の23.2%に該当し、韓国で一番数が多い。
 次に、プロテスタントは、大韓イエス教長老会(合同)をはじめに、170個の教団がある。プロテスタントは信仰のあり方の問題で他の宗教にくらべ教団が多様化している。プロテスタントには、長老教(Presbyterian)、監理教(Methodist)、聖潔教(Holiness Church)、浸禮教(Baptists)などがあるが、プロテスタント最大の教派である、長老教は、大韓イエス教長老会(合同)、大韓イエス会長老会(統合)、大韓イエス教長老会(高神)、韓国基督教長老会など、100余の教団に分かれており、監理教、聖潔教、浸禮教なども、多様な教団に分かれている。プロテスタントの教会数は60,780箇所、聖職者は124,310余名で、教会と聖職者の数は一番多い。プロテスタントの信者数は、1995年の人口調査をよれば、8,760,000余名で、19.7%に達する。10年前より3.6%(2,270,000余名)増加しており、韓国宗教の中で一番大きな成長を見せている。
 また、カトリックにはソウル大教区など三つの大教区を含め、16箇所の教区と各種の団体と75の法人がある。2,385箇所の教会と修道院を持ち、聖職者は13,704余名である。カトリックの信者数は、1995年の人口調査によれば、2,950,000余名で総人口の6.6%に該当する。これは、10年前と比べ、2.0%(1, 080,000余名)増えている。  以上を含めた韓国の諸宗教の状況は、下記の「宗教別教勢現況」に示された通りである(その他宗教には韓国の新宗教や日本の天理教などが含まれる)。

宗教別教勢現況

区分 団体数 宗教施設数 教職者数 信徒数
宗教団体の統計 人口及び
住宅調査集計
(1995.11.1)
人口及び
住宅調査集計
(1985.11.1)
仏教 105 22,072 41,362 37,495,942 10,321,012 8,059,624
プロテスタント 170 60,785 124,310 18,727,215 8,760,336 6,489,282
カトリック 1 2,385 13,704 4,228,488 2,950,730 1,865,397
儒教 1 730 31,833 6,004,470 210,927 483,366
天道教 1 212 5,670 996,721 28,184 28,818
圓仏教 1 548 11,190 1,337,227 86,823 92,302
大シュウ教
(シュウはにんべんに宗)
1 109 358 477,342 7,603 11,030
その他の宗教 44 4,992 280,685 12,864,820 232,209 175,477
324 91,833 509,112 82,132,225 22,597,824 17,203,296

*宗教団体集計信徒数は、各宗教団体から提出されたものを集計した。 統計庁集計・韓国総人口(1995.11.1現在)は44,553,710人(2)

 ここで、少し説明を付け加えれば、宗教団体が集計し、統計庁に報告した信徒の総数は、人口調査による総人口の3倍以上になる。信徒数も韓国人口44,553,710人にくらべ、仏教が70%以上になり、キリスト教(プロテスタント)も40%以上という数字が出る。これについては、次の点を考慮するならば、ある程度理解可能であろう。つまり、人口調査集計では、0歳から小学生までは、信徒数に含まれておらず、またキリスト教信徒からは、同居または他の地方に住む者は排除されたと判断されるのに対して、宗教団体が集計したものには、0歳から小学生が含まれ、他の地方に住む者も含まれている。
 次に、各宗派の関係について、考察してみよう。護国思想から発展した韓国の伝統的な宗教は、国家体制を支え、固有の独創的な性格によって、民族文化発展の精神的基盤となってきた。全般的に見て、伝統宗教は国家に順応し、地方では民衆たちに受容され相互に助け合いながら、社会に関与し寄与してきたと言える。例えば、地方文化遺産保存、祭りなどの伝統文化継承などをあげられる。
 しかし、キリスト教と伝統的な諸宗教との間には、宗教観の相違や、対話、相互理解、連帯、寛容性の欠如が感じられる。それは韓国キリスト教だけではなく、世界のキリスト教についても当てはまることかもしれない。
 ここで、キリスト教の他の宗教に対する関わり方について三つの立場──排他主義(exclusivism)、包括主義(inclusivism)、多元主義(pluralism)──を整理しておこう。まず、排他主義とは、キリスト教以外には救済がないとする立場であり、キリスト教絶対主義(christian absolutism)と言うこともできる。たとえば、19世紀アメリカの神学者や信仰者は、この立場からアジア宣教を決心した。彼らの神学思想によれば、聖書は無謬である、すなわち聖書は神の啓示の書であると主張し、またキリスト教の信仰と教理の真理性を守ろうとした。アメリカではしばしば福音主義と呼ばれ、アジアの各国、特に韓国では改革主義あるいは根本主義と言われている(李、2005、2-3頁)。
 次は、包括主義である。包括主義は、一方では、自らの宗教を最上位におき、その点では自己中心的であり、排他主義とも通じるが、他方では、競合する他の宗教の価値もある程度認めている。これは、第2次バチカン公議会(1962-1965)以降のカトリックの立場がその代表と言われる。
 最後に、多元主義であるが、これは、真の宗教として、一つだけを認めるのではなく、複数を認める立場である。即ち、究極的にはすべての宗教の信仰対象を超えた説明不可能な一つの神的な存在(真実在)を信じるが、その神的な存在との関わりを多様な仕方で表現するものとして複数の宗教の存在を肯定し、それらの間には相互補完的関係を認める立場であり、代表者としてはジョン・ヒックが挙げられる。この宗教的な多元主義の歴史的源泉は、自由主義神学の父であるシュライアマハーに見いだすことができるかもしれない。自由主義神学の特徴は、キリスト教解釈の権威を聖書よりも理性におき、超自然的なものは排除し、キリスト教を現実的倫理的に把握する点に認められる。19世紀から20世紀にかけて、自由主義神学は、ドイツからアメリカへと広がっていった。(李、2005)
 では、韓国キリスト教の性格はどうだったのであろうか。初期の宣教師の思想から、その点について充分に伺うことができる。韓国の初期宣教師たちは、主にアメリカ長老会とオーストラリア長老会に所属していた。彼らは、すべてピューリタン的な信仰を持ち、保守的な福音主義に属していた。これらの宣教師とアメリカや日本で神学を学び帰国した牧師たちの間で神学論争が起きた(1934年)。即ち、新神学派と旧神学派との論争である。新神学派の中には、金英洙牧師など、創世記はモーセが記述したのではないと主張する者があり、また、関西学院大学で学んだ、金春培牧師は聖書霊感説を否定し、監理教派の柳?基牧師は「アヒングトン聖書理解」翻訳を出版し、自由主義神学を主張した。これらの新神学派に対して、平壌神学校馬布三悦宣教師は「兄弟たち、40年前の福音を信じ、伝えなさい」と呼びかけた。(金、2003、68-69頁)。保守主義の宣教師や牧師たちは、主に釜山を中心として、慶?南道へと宣教を活発に行った。そのため、日本統治下での日本キリスト教の伝道、特に自由主義神学に立つ海老名弾三の日本組合教会の朝鮮宣教は、この地域では大きな困難に遭遇することになった。この点は、日本組合教会朝鮮伝道状況(日本組合教会の教勢地図)を見ればよくわかる(金、1998、133頁)
 しかし、この慶南・釜山地方におけるキリスト教宣教の困難な状況は、現在にも及んでいる。それは、この地方の宗教状況から起因するものであるが、ここでは、その一例として檀君信仰の問題を取り上げてみよう。檀君とは、韓国神話の主人公である。太白山の麓に桓雄が天から降りてきて、熊と結婚して檀君を生み、この檀君が韓民族の祖先になったという神話であり、現在も実在の人物か否かをめぐって論争が続いている。近年、私設団体である韓文化運動連合は民族精神を後世に伝える目的で「檀君像」をつくり、教育の場において、この民族精神を取り上げるべきであるとの主張を行っている。そして、1998年11月から1999年7月までに、全国280あまりの学校及び公園に369の像を建てた。「檀君像」建立当初から、全国のキリスト教指導者及びキリスト教信者は反対声明を出し、各地で反対運動を展開した。韓国キリスト教総連合会の決起大会では、次のような声明書が発表された。
 「檀君に仕える特定宗教団体の内部に「檀君像」を建てるのには我らも反対をしない。宗教が多元化した社会でキリスト教も共存を模索しており、「檀君像」自体は充分理解できることである。問題は「檀君像」を公共の場に立てることにある。どの宗教であれ、その神聖視する信仰対象を公共の場に立てることは、宗教の自由に対する侵害である」(1999年6月14日、韓国キリスト教決起大会声明文の一部)。
 つまり、檀君宗教を信じるのは信教の自由であるが、公共の場に立てることは、政教分離の原則に反することだと主張しているわけである。その後、キリスト教の牧師や信者たちのある人々は、「檀君像」の頭や鼻、腕などを切り取り海へ捨てるなどの事件を起こした。これは「檀君像」建立以降、現在まで約70回にも及ぶ。関係の信者たちの話では、「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでもどんな形をも造ってはならない」(3)、つまり、真の神様以外の偶像に従うなと聖書に書かれている、もし、公共の場に偶像を立て、そこに人々が参拝をすることになれば、キリスト教を信じる家庭の子供たちにも悪い影響が及ぶ危険がある。(公共の場で立てられている、破壊された「檀君像」参照) 檀君像の破壊活動を行った多くの信者たちは逮捕されたが、このような事件は、キリスト教福音主義の牧師と信者たち、とくに排他性が強い、慶南・釜山地域に多かった。
 こうして破壊された檀君像を見てメッセージを書いた、鄭英文牧師の言葉を引用してみよう。(4)
 「宗教的に多元化された時代を生きる我々にとって、宗教とは一体何かを常に問わなければならない現実がある。「檀君像」破壊の本質は、宗教的な利己心と排他性にある。(中略)そのため、破壊しなくてはならないものは、「檀君像」ではなく、むしろ宗教的な利己心と人間の残虐性である」。鄭牧師は排他的利己主義宗教を捨てて、対話の場を開き、あらゆる宗教の間で和解と寛容を探ろうと主張したのである。

3)韓国仏教とキリスト教の対話と公共性

  しかし、全国で、もっとも保守的傾向が強い、慶南や釜山でも、仏教とキリスト教の対話の場が設けられている。韓国で近年もっとも教勢が伸びている仏教教団の一つである、大韓仏教「法然院」の住職許油氏は(5)、1980年以来、仏教とキリスト教、そして他の諸宗教との教理は人間が作ったものであるかぎり、それぞれ相違点はあるが、イエスと釈迦の教えは同じ真理を含んでいると主張している。たとえば、キリストという名前が人類を救済するメシアを意味するのに対して、釈迦は「ゴータマ・シッダルタ(瞿曇悉達多)」即ち、「成し遂げた」(シッダルタ)という意味であり、両者の名前は、人類の救済の成就という点で一致している。また、釈迦の誕生やイエスの誕生も似ている。現在イエスの誕生日は12月25日になっているが、聖書によれば、「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」(ルカ福音書2:8)とあるように、ほんとうは、釈迦の誕生日と同じ、春の終わりごろと思われる。このほか、 救済が成就する場という点で、キリスト教の天国と仏教の極楽は同じ意味を持つ。(6)
 許油氏が1995年から始めた宗教行事の中でもっとも有名なのは、法然院の法堂で12月25日に行われるクリスマス記念礼拝である。報告者も招待を受け参加したが、法堂内の釈迦が祭られている場所に、キリストの写真とイエス・キリスト誕生というプラカードを掲げ、誕生礼拝が行われた。法堂は3000人の参加者で埋め尽くされ、礼拝が始まる前にクリスマス・キャロルが法堂にながれ、礼拝が始まると招待された講演者が次々と中に入ってきた。この日の招待客には、釜山市長を初めとし、プロテスタントの鄭英文牧師やカトリックの宋基仁神父など、各宗教団体の指導者たちが20名くらい含まれていた。
 礼拝では、まず、全体で「諸人こぞりて」(讃美歌115)を歌い、続いて仏教信徒で構成された讃佛歌合唱団が、教会の聖歌隊のような編成で「幼子イエス」を合唱した。この後、各団体の指導者が説教を行った。この中でまず、許油氏は、イエスはこの世にこられて「愛」を教え、釈迦は「大慈大悲」を教えたが、両者の真理は同じものだと説教した。この後、プロテスタントの鄭牧師は、イエスは人類を救済するため誕生し、釈迦も哀れな衆生を救うため来たと話した。カトリックの宋神父は、現在の宗教状況は多元的であるが、しかしそれぞれの宗教は互いの教理の違いだけを主張してはならない。互いに愛し合い、他の宗教も認め、社会に寄与する宗教こそ、真の宗教だと語った。(2005年法然院、イエス誕生記念祝賀法会参照)

4)日本統治期に犠牲となった朝鮮強制労働者慰霊祭

 法然院では、毎年過去に犠牲となった英霊のために慰霊祭を行っている。2001年2月27日の慰霊祭では、日本統治期に炭鉱での強制労働において事故にあった、山口県宇部市長生炭鉱の朝鮮人労務者の霊を慰めた。事故は、1942年2月3日朝8時に起きた。海中で石炭を掘り出す作業中に水没し、186名の犠牲者が出たが、その中に朝鮮人136人が含まれていた。当時、石炭は戦争に必要な資源であり、危険を犯して作業が行われた。現在も186人の犠牲者の遺体は海底に眠っている。戦後60年あまり経ったにもかかわらず、事故の事実はあまり知られていなかった。しかし、この事件が韓国に知らされると、許氏をはじめ、500人あまりの人々が現地を訪れ、慰霊祭を行い、犠牲者136名の位牌を韓国に持ち帰った。
 この際、許氏は「今日、自分の宗教のことだけを知り、他人の宗教を理解しない利己主義の思想は、時代遅れとなっている。すべての宗教は和合と平和を重んじ、互いに愛し合わなければならない。そして日本政府と韓国政府は、国と民族のため犠牲となった人々の遺骸を発掘し、損害賠償をしなければならない」と話した。特に興味深いことは、死者の英霊問題である。許氏によれば、仏教には、「業」・「報」という考えがあるが、「業」には、さらに「善業」と「悪業」がある、「善業」には「善報」が伴い、「悪業」には「悪報」が伴う。長生炭鉱で犠牲になった朝鮮労務者は、総督府の命令により、強制的に連行された人々であるから「善業」にあたり、「善報」で報いることが釈迦の教えだ。(7)
 また韓国仏教を代表する曹溪宗総務院長である正大僧侶はこの日特別に参加したが、「解放60年に近いにもかかわらず、どこの宗派も強制連行された人々の死と悲しみを取り上げてこなかった。大韓仏教法然院の立派な行いに感謝する」(8)と述べ、仏教経典には「六道輪迴説」──死後、魂は善悪の業により、六つの道(天・人・阿修羅、餓鬼・蓄生・地獄)を輪廻する──があるが、それに従えば、炭鉱で死んだ死者の霊魂・英霊は、極楽往生するはずである、と語った。(9)
 韓国カトリック教会から参加した枢機卿金寿煥神父は、「今日、韓国がこの世に存在するのは、日本統治下で、国家と民族のため働き、国のため犠牲となられた方々の功徳によるといえるだろう。犠牲者たちを慰労する慰霊祭をこのように執り行うことは、真に立派なことであり、これで死者たちは死のない永遠の天国で健やかにすごすだろう」(10)と述べた。また韓国キリスト教指導者協会名誉会長である?鎬準牧師は「韓国の先烈たちの生涯は十字架の生涯であり、また恨文化の中の主人公と思われる。日帝の苦しみの中で死に、過去60年間未だ遺骸も帰ることができない英霊たちを追慕する行事は、真に立派なことである。死者の英霊は、キリスト教で言う、イエスが再び臨在されるとき、イエスが復活したように、再び死ぬこともない国に行くであろう(ルカの福音書20:36)」と話した。その他にも多くの宗派指導者たちが話したが、ここでは省略させていただく。
 この日、慰霊祭に参加した方々は韓国の各宗教の代表的な指導者であり、共に強制徴用者たちの死を哀悼し、また死者の英霊問題でも見解が一致していた。仏教、カトリック、プロテスタントのそれぞれの立場から見て、死者の英霊はこの世よりもっと良い所、つまり、極楽あるいは天国へ行くと考えられるのである。

5)韓国宗教間の対話の課題と展望

 現在の韓国では、宗教間の対話、相互理解、連帯、寛容性について、不足している点が見られる。慶南、釜山地域といった保守的傾向の強い地域では、とくにそうである。しかし、このような地域性を乗り越えるために、2006年3月8日「共動実践釜山宗教指導者協議会」が釜山市庁で組織された。会長には正如僧侶(如如禅院長)が選任され、毎月の集会を、プロテスタント、仏教、カトリック、天道教、圓仏教などの、それぞれの寺院や教会などを巡回しながら開催することになった(仏教新聞、2006.3.18)。またその他にも、1995年に組織された釜山宗教人平和会(会長正賞僧侶)がある。このような団体によって、対話の場が開かれ、釜山を初めとする、各地域に影響を及ぼしつつある。
 また、何よりも法然院での宗教行事(キリスト教あるいは他の宗教儀式)の開催、あるいは国家や民族のため犠牲となった英霊たちの慰霊祭において見られるように、現代韓国において、宗教間の対話、理解、寛容などの必要性はきわめて明らかである。宗教行事を通し、伝統文化を基盤として、民族や宗教に関わる価値観を形成し、現代社会におけるグローバル化に対応する必要がある。

文献

1.李得烋「宗教多元主義について」(宗教多元主義セミナーでの発表)、2005年11月9日。
2.金文吉「日帝統治下における神社参拝と朝鮮キリスト教−朝鮮教会の神学思想と神社参拝−」『アジア、キリスト教、多元性』(現代キリスト教思想研究会)創刊号、2003年、65〜81頁。
3.金文吉『近代日本キリスト教と朝鮮−海老名弾正の思想と行動−』明石書店、1998年。

<注>

(1)韓国文化観光部『2005年・文化政策白書』、2006年、441頁。
(2)同上書、442頁。
(3)出エジプト記20章4節。
(4)鄭英文牧師は釜山海雲台シオン監理教会の元牧師。現在、釜山宗教人平和の常任共同代表。2006年興士団「第10回尊敬される人物賞」受賞。
(5)法然院は全国に50箇所の寺院と海外10箇所の寺院を持ち、信徒数5万人に達する。
(6)許油「釈迦とイエスに関する類似と差異点について」『アジア・キリスト教・多元性』(現代キリスト教思想研究会)、第3号、2005年、89-90頁。
(7)日帝強制徴用長生炭鉱水没犠牲者慰霊祭委員会刊行「英霊慰霊祭及び還国奉安」、15頁。
(8)同上。
(9)同上。
(10)同上。